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ドイツ音楽の成り立ち 1 音楽は自由を求めて ケルト聖歌(Celtic chant)グレゴリオ聖歌 (Gregorian chant)の比較 グレゴリオ聖歌誕生の背景と発展 楽派と背景:作曲家の交流と事情 作曲家年表 Bourgogne楽派 から Flandre楽派 へ EnglandRenaissance音楽 Flandre楽派からVenezia楽派、ドイツ音楽への影響 Venezia楽派 Flandre楽派 から Netherlands楽派 経由で、 北ドイツOrgan楽派 (Norddeutsche Orgelschule) の誕生の背景と発展 フランスのBaroque音楽 南ドイツOrgan楽派 (Süddeutsche Orgelschule):国際派 ドイツ音楽の発展 音楽に関する団体について FirenzeCamerata ParisConcert spirituel Leipzig, HamburgCollegium musicum LeipzigCorrespondierenden Societät der musikalischen Wissenschaften 音楽科学文書交流協会 2017 Sept. 24 高橋 善彦 [email protected] バロック時代(1500 – 1700)の作曲家 : Wikipedia 日本語版 336, 英語版 1,067, 独語 1,087

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ドイツ音楽の成り立ち

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• 音楽は自由を求めて

• ケルト聖歌(Celtic chant)とグレゴリオ聖歌 (Gregorian chant)の比較• グレゴリオ聖歌誕生の背景と発展

• 楽派と背景:作曲家の交流と事情 作曲家年表• Bourgogne楽派から Flandre楽派へ• EnglandのRenaissance音楽• Flandre楽派からVenezia楽派、ドイツ音楽への影響

• Venezia楽派

• Flandre楽派から Netherlands楽派経由で、北ドイツOrgan楽派 (Norddeutsche Orgelschule) の誕生の背景と発展

• フランスのBaroque音楽• 南ドイツOrgan楽派 (Süddeutsche Orgelschule):国際派• ドイツ音楽の発展

• 音楽に関する団体について• FirenzeのCamerata• ParisのConcert spirituel• Leipzig, HamburgのCollegium musicum• LeipzigのCorrespondierenden Societät der musikalischen Wissenschaften音楽科学文書交流協会

2017 Sept. 24 高橋善彦[email protected]

バロック時代(1500 – 1700)の作曲家 : Wikipedia日本語版 336, 英語版 1,067, 独語 1,087

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Hallstatt territory B.C. 6世紀

最大 Celtic 域 275 B.C.

Lusitanian 語圏Iberia / Celtic (?)

6 Celtic 民族 / Celtic 語 – c.1500

Celtic 語が現存している地域

ケルト聖歌(Celtic chant)とグレゴリオ聖歌 (Gregorian chant)

Celtic cross

ケルト聖歌(Celtic chant)

典礼用の単旋聖歌・定旋律英国、Ireland, Brittany のRoman Catholic教会で、Celt式の礼拝で演奏7世紀~12世紀、Celt式礼拝はRoma式の礼拝に置き換えられるCeltic chant の記録は残っていない現在のIrelandの礼拝などに痕跡がある

Celt人は、中央アジアからEurope に渡来古代Roma人はGallīa地区の民族をGallīa人と呼ぶRoma人、ゲルマン民族に押され北上する

5世紀に聖Patrick が設立したIreland 修道院には、Celt式教会の痕跡が残っている

Ireland の修道士は男子修道院を Europe各地に作るCeltic chantは、Spain(Mozarabic聖歌), Gallia(Gallican聖歌), Roma(Old Roman, Ambrosian, Beneventan聖歌)や東洋から影響を受けるCeltic chantはGallican chantと形式が似ている

Irelandの教会で使われていた“Ibunt sancti”には、Celtic様式が残っている頭韻法、二行連句構造:Celticの要素ABA形式の繰り返し構造:現存している旋律、フランスの手書き資料

紀元前1世紀頃のGalliaの都市と部族の分布 Karoling 朝時代のフランク王国

グレゴリオ聖歌 (Gregorian chant)

西方教会、Roman Catholic教会で用いられる、単旋律無伴奏の聖歌フランク王国カロリング朝(Karoling)の時代、741年から768年に、Roma聖歌とGallia(Celt)聖歌を統合9世紀から10世紀、フランク人(Franken ; German系の支族)の居住地域で発展、改変を受けながら伝承

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グレゴリオ聖歌の発展 分類体系化 教会旋法が成立グレゴリオ聖歌の旋律はNeuma譜を用いて記譜

教会初期から歌われ、何世紀も口伝承9世紀頃、音高を示さない無音高、音高を示すように11世紀に譜線Neuma、4本の譜線が用いられる

Neuma : ギリシャ語νευμα, 呼吸、合図という意味

Crux fidelis 神聖なる十字架よ

Crux fidelis, inter omnes arbor una nobilis:nulla silva talem profert, fronde, flore, germine.Dulce lignum, dulces clavos, dulce pondus sustinet.

Pange, lingua, gloriosi proelium certaminiset super crucis trophaeo dic triumphum nobilem,qualiter redemptor orbis immolatus vicerit.

De parentis protoplasti fraude factor condolens,quando pomi noxialis morte morsu corruit,ipse lignum tunc notavit, damna ligni ut solveret.

僅かな差でも表現を広げる:音楽の発展の本質発展:分類・体系化 教会旋法が成立

記譜が生まれ、音楽が移動可能:相互に影響

ケルト聖歌(Celtic chant)とグレゴリオ聖歌 (Gregorian chant)

Flandre楽派 : Franko-flämische Musik / Schule

15世紀後半から16世紀フランドル(Vlaanderen、仏: Flandre、独: Flandern)旧フランドル伯(Comte de Flandre) 領オランダ南部、ベルギー西部、フランス北部中世に毛織物業を中心に商業、経済が発達Europeの先進的地域として繁栄

Bourgogne楽派 (École bourguignonne)15世紀中頃、ブルゴーニュ公国 (État bourguignon)で、Guillaume Dufay (1400 ca. – 1474) 以降、ルネサンス音楽を開拓

Flandre楽派 (École franco-flamande)Bourgogne楽派を引き継ぎ、15世紀後半、フランドルを中心に活躍し、16世紀中期になるとFlandreだけでなくイタリアを始め Europe 全体で、支配的な地位を占め、Flandre楽派の様式は、Europe全体の普遍的な様式となり、Baroque音楽の展開へ基礎を築くNederland楽派 (École néerlandaise) 両派を合わせての呼び名

Armes des comtes de Flandre

1384年 フランス王家Valois家傍系 (Valois-Bourgogne家)のBourgogne公Philippe II 世とFlandre女伯Marguerite III 世が結婚し、 FlandreはBourgogne公国の一部となる

1477年 Charles de Valois-Bourgogne 公が戦死すると、Charles の娘Marie と、後の神聖ローマ皇帝Maximilian I 世の子孫であるHabsburg家がFlandreを含むNederland 17州を継承統治する

John Dunstable (c. 1390 – 1453) England Bedfordshire出身England独自の3度・6度を連続で用いた和声法、faburdenをBourgogne楽派に伝えBourgogne楽派はfauxbourdon(仏; 偽りの低音:false bourdon)として発展した 3

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EnglandのRenaissance音楽

Thomas Tallis (ca. 1505 – 1585)1543年から、TallisはCanterbury大聖堂で、王宮に、王室礼拝堂(Chapel Royal)のGentlemanの職位Henry VIII世、Edward VI世、Queen Mary, Queen Elizabeth I世に仕える

William Byrd (ca.1539/40 or 1543 – 1623)

1572年、王室礼拝堂のGentlemanの職位に就いている

William Byrd

ByrdとTallisは、宗教改革の波乱の中、周囲で起こる宗教的な議論を避け、宗教改革以前のRoman Catholicに留まるCatholicであっても、英国国教会の礼拝で使われる宗教音楽を作っている

Queen Elizabeth (1558–1603)は彼女自身は音楽を愛し鍵盤奏者で、ByrdとTallisに対して中庸に接し擁護、特権を与え、支援している21年間独占的に楽譜を紙に印刷することを許されている

二人は独占権を利用して、“Cantiones quae ab argumento sacrae vocantur”と題した曲集を印刷:34曲のLatin語によるMotet集、Queen Elizabethに献呈

宗教改革:音楽資産の破壊を繰り返し、内戦と共和制:音楽の空白期間礼拝と音楽は地下に潜む環境Byrdは多くの弟子を育て、ByrdのEngland国教会用の音楽が、伝統を維持王政復古後の合唱演奏の基礎という形で、18世紀まで継承される

Queen Elizabethに限らず、混乱の中、治政者は音楽家を保護しようとしている

Thomas Tallis

Elizabeth I (1533 – 1603)

イタリアを巡って、フランス王国のヴァロワ朝 (Valois) と神聖ローマ帝国の間で衝突を繰り返していた頃、1527年5月に、神聖ローマ皇帝兼スペイン王 Karl V 世の軍勢がイタリアに侵攻し、教皇領のローマで殺戮、破壊、強奪などを行いました. ローマに集まっていた文化人・芸術家は殺され、あるいは他の都市へ逃ます.

当時の Europe 文化の中心地であったローマから多くの音楽家が離れ、Venezia へ

Adrian Willaert

フランドル生まれの Adrian Willaert は、イタリアでVenezia楽派 (Scuola veneziana) を創立し、17世紀になってBaroque音楽を開拓した Claudio Giovanni Antonio Monteverdi につながります.

Venezia楽派の誕生の背景:政治的な面1521年の教皇レオ10世 (Papa Leo X) の死と1527年のローマ略奪

印刷術が発展し、16世紀初頭から Venezia は音楽出版の中心地フランドルやフランスの作曲家たちが新技術の恩恵にあずかるため Venezia へ

聖マルコ寺院 (Basilica di San Marco)フランドル楽派出身のAdrian Willaert (1490 ca. – 1562)が1527年に楽長に就任

巨大な聖堂の残響を活かした、分割合唱(cori spezzati)の技法を考案:複合唱(venezianische Mehrchörigkeit)

作曲家Willaert の影響は甚大で多くの弟子を育てるVenezia楽派の誕生

Basilica di San Marco

Venezia楽派 : Scuola veneziana 16世紀中期から17世紀初頭

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O Sacrum Convivium - St Georges Windsor

Kyrie - Mass for 4 voices The Battell

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Ottaviano Petrucci (1466 – 1539, Venice) Fossombrone (Pesaro) の出身“Harmonice Musices Odhecaton” 歌集を1501年に印刷 96曲のpolyphony歌曲

最初の楽譜の印刷:Roma の印刷業、Ulrich Han が “Missale Romanum 1476年版” を印刷楽譜印刷を実用化したのは Petrucci Josquin des Prez や Antoine Brumel の作品を出版

Harmonice Musices Odhecaton

Venezia での楽譜の印刷

Petrucci の楽譜印刷:Gutenberg の印刷技術を応用

Veneziaで、20年にわたる独占権を与えられる五線、歌詞、楽譜の順番で3回の印刷綺麗な楽譜を印刷手間と費用のかかる印刷

1520年頃のEnglandJohn Rastellが1回の印刷方法を開発簡単、五線位置が揃わない波打つなど品質は粗雑17世紀の銅板Engraving(彫刻)による譜面印刷が成立するまで、広く使われ普及

Venezia楽派 : Scuola veneziana

Johannes Gutenberg (1398 ca. – 1468)1440年、Strasbourg で自身の研究に基づく印刷術 ; 活版印刷を完成Kunst und Aventur (アートと事業)と題して公開1450年までには印刷所の運営を開始、最初に印刷したのはドイツ語の詩1452年から聖書等の印刷の準備を始め、1454年、1455年頃から印刷

「グーテンベルク聖書」と呼ばれる最初の印刷聖書「四十二行聖書」は1455年に完成紙および羊皮紙に約180部を印刷

印刷は宗教改革で重要な役割Luther の『95ヶ条の論題』は約2年間で30万部を印刷、広く普及

四十二行聖書の冒頭、Hieronymus の書簡

Claudio Monteverdi : L’Orfeo - Toccata

Clarino

Quinta

Alto e basso

Vulgano

Basso

John Rastellの方式による楽譜印刷

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Venezia楽派 : Scuola veneziana

叔父のAndrea Gabrieliに師事Münchenに留学 : Bayern公爵(Herzog von Bayern.) Albrecht V. (der Großmütige) 宮廷にて、Orlando di Lasso に師事し、1579年ごろまで滞在

1584年に Venezia に帰国 : 1585年に聖マルコ大寺院の首席Organistに就任翌年、叔父の死に続いて、首席作曲家の地位楽長はGioseffo Zarlino (1517 – 1590)

聖Rocco大信徒会 (Scuola Grande di San Rocco)教会のOrganistに就任

Giovanni Gabrieli (1557 – 1612, Venezia)

G. Gabrieliの曲集「宗教曲集」 Sacrae symphoniae (1597)を発行

Europe 中の作曲家、とりわけドイツ出身の作曲家が、Venezia に留学することが多くなるGabrieli は弟子たちに、イタリアで作曲されたMadrigaleを研究させ、壮麗なVenezia楽派の複合唱様式、Madrigale様式を教授

Hans Leo Haßler (1562 – 1612, Frankfurt am Main)Heinrich Schütz (1585 – 1672, Dresden)Michael Praetorius (1571 – 1621) らが師事

初期ドイツBaroque音楽に移植、基礎としてVeneziaの伝統を取り込む

Scuola Grande di San Rocco

G. Gabrieliの音楽と様式

特に宗教音楽、声楽と器楽を採用し音響を最大限に生かした音楽器楽で音の強弱を巧みに生かした音楽:“Sonata pian’ e forte”空間的に分割したグループを複数配置する大規模な編成

空間を分ける:後にBaroque協奏曲様式を作り出す

斬新な音楽として、早々に北部Europeに広がります.

Basilica di San Marco

(14) Cappella della Madonna dei Mascoli(15) Cappella di Sant'Isidoro(16) Cappella della Madonna Nicopeia(18) Cappella di San Pietro(23) Cappella di San Clemente

San Marco 寺院:複数グループ配置を用い、空間的な効果を創出Gabrieli:器楽と声楽の2つ以上のグループの楽器配置までを充分に検討して、配置方法などを特定

CornettoSackbut

Gabrieliの時代の金管楽器

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Cappella Marciana

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Venezia楽派 : Scuola venezianaClaudio Giovanni Antonio Monteverdi (1567 – 1643)

Claudio Giovanni Antonio Monteverdi

Renaissance音楽対位法の伝統的なPolyphony作曲家として出発より感情の起伏を表現しようと、新しい対位法の可能性を広げる

1605年、Madrigale集第5巻出版 論争が起きる第4巻のMadrigaleの作曲様式が粗雑である

第5巻の序で、音楽演奏を第一作法(prima pratica)と第二作法(seconda pratica)の2つ分ける提案第一作法は従来の16世紀的な対位法に従うPolyphony音楽第二作法は自由な対位法、SopranoとBassを重要視:中部イタリアのmonodia様式第5巻のMadrigaleに器楽通奏低音付、Monteverdiが新しく導入「調性には機能がある」と意識して使い始めている

全8巻のMadrigale曲集の中で、RenaissanceのPolyphony音楽からBaroque音楽のMonodia様式へ変遷1651年、Madrigale曲集第9巻出版 様々な時点で作曲された曲、Canzonettaなど遺稿

Monteverdi は1567年に北イタリアの Cremona 生まれ幼少期にはクレモナ大聖堂 (Cattedrale di Cremona) の楽長であったMarc Antonio Ingegneri に師事

1582年と83年、Mottettoと宗教Madrigale集を出版1587年、世俗Madrigale曲集を出版1590年、Mantova のVincenzo I 世 Gonzaga宮廷の歌手、Viola da gamba 奏者1602年、宮廷楽長

40歳まで主にMadrigaleの作曲に従事、9巻の曲集

1638年、Madrigale集第8巻出版最大の規模、30年間以上に渡る曲を収録“Madrigali dei guerrieri ed amorosi” 戦いと愛のMadrigale“Il Combattimento di Tancredi e Clorinda” TancrediとClorindaの闘い

オーケストラと複数の合唱による劇的な音楽

先任者のG. Gabrieli同様、San Marco寺院の対面バルコニー配置に着想弦楽器のTremolo、Pizzicatoを効果的に利用

明確な旋律と歌詞に器楽の伴奏を伴うMonodia様式は、Operaに発展1607年、Monteverdi は最初のOpera作品 “L‘Orfeo”をMantovaで初演劇的なオーケストレーション、楽器指定をした初期の作品描写的な表現:dramma per musica「音楽による劇」様式Opera作品の中で、雷の効果音をはじめて使った;Opera音楽の原点

1610年、“Vespro della Beata Vergine” 聖母マリアための夕べの祈り出版譜にある音楽の規模が非常に大きく長い;目的は不明

1613年、Monteverdi は Venezia の聖マルコ寺院の楽長に就任

Frontpage - Bassus Generalis, Venice, SV 206 and 206a, July 1610

晩年までVeneziaで大きな音楽的影響力を保ち、門下からCavalliなどのOpera作曲家を輩出Heinrich Schützは、1628年、Monteverdiに師事し、新しい様式を学び、ドイツ音楽へ応用

Vespro della Beata Vergine, 1610.Sir John Eliot Gardiner, Versailles Chapelle Royale, with the Monteverdi Choir, the English Baroque Soloists

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Venezia楽派 : Scuola veneziana

イタリアにおけるRenaissance音楽からBaroque音楽への変遷

1600年以前のRenaissance音楽の作品は対位法を基本に作曲声部の模倣や不協和音の利用法に多くの制限北イタリアのMadrigale作曲家は、詩の内容や詩に現れる個々の語の感情を音楽的に表現する手段を模索

FirenzeのCamerata:古代ギリシアの音楽悲劇を復興、感情と結びついた音楽表現する手段を模索音楽で感情の劇的な表現を通して、音楽の作曲法の制限を取り除く

* Camerata de‘ Bardi : 16世紀後半の Firenze の人文主義者や音楽家、詩人等知識人が、Giovanni de' Bardi 伯爵(Firenze, 1534 – 1612)の邸宅に集って結成した音楽サークルCamerata : イタリア語の同僚 ( 英語の comrade / colleague も同じ意味)

Monodia (モノディー)形式

Camerata、劇中の登場人物が1人で歌唱する作品の形式を発案;Monodia 形式Renaissance音楽では、3声部以上の声楽が主流

Camerata、Giulio Caccini (1545 ca. – 1618) の新音楽 (Le nuove musiche) (1601)歌手の旋律声部と伴奏用の低音声部の2声部低音パートには数字を添えて記譜:番号付き通奏低音の原型

Monodia歌曲は、同じ旋律に歌詞を変えての繰り返しを持たない通作形式:Recitativo の原型

伝統から更に自由にという潮流は声楽に限らず、宗教音楽、鍵盤音楽、リュート音楽などにも影響Baroque時代の特徴となる、半音階や比較的自由な不協和音の使用もこの時期に一般的となる

Venezia都市の繁栄:富裕市民のためのOpera劇場が17世紀中頃まで相次いで建てられ、Operaが大流行Venezia 風Opera:Monteverdi、弟子のFrancesco Cavalli (1602 – 1676)によるものが有名

Camerataの音楽劇から、RecitativoとAria, 器楽のRitornèlloによってOperaを構成する形式へと変化

Operaの隆盛:器楽演奏の需要も増え、器楽も発達Renaissance末期、Giovanni Gabrieliらによって、concertato形式の器楽が発達器楽の名手(virtuoso)の出現;旋律楽器の独奏や二重奏と通奏低音による単一楽章形式のSonata

Romaでも教皇庁、貴族、外国人を中心に音楽活動が活性化貴族の邸宅:RecitativoとAriaの形式を取り入れた室内 Cantata教皇庁や教会:典礼のためのミサ曲に加え、宗教的な題材にCantata形式の音楽を付けたOratorio

Girolamo Frescobaldi (1583 – 1643)Romaでの器楽曲印刷された曲集は、17世紀の音楽に最も影響

Giacomo Carissimi (1605 – 1674)初期の CantataやOratorioの代表的な作曲家ローマ楽派 (Scuola romana) の創始者

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ドイツのBaroque音楽 初期Baroque

Schütz は Thüringen州 Köstritz(当時は東thüringenのReuß領)出身

1599年 14歳のSchützはHessen-KasselのMoritz方伯(Landgraf)に音楽の才能を見出され、Kasselの教会学校(Kasseler Hofschule), Collegium Mauritianumに入学1607年からMarburgで法律を学び、同時にOrgan演奏と作曲の勉強も開始

1609~1612年 方伯の援助を得て、VeneziaのSan Marco寺院のGiovanni Gabrieliに師事1611年 最初の曲集 „Il Primo libro di Madrigali“ (マドリガル集第1集、SWV 1-19)

Heinrich Schütz1613年 Kasselに戻り、Moritz方伯は、第2 Organistに任命1615年 Dresden のSachsen選帝候宮廷に就任

1614年から方伯とSachsen選帝侯 Johann Georg I世間で論争最終的には選帝侯が押し切ることで1619年に決着

ドイツの音楽を牽引するDresden宮廷楽団 (Dresdner Hofkapelle, 現在のSächsische Staatskapelle Dresden) の指揮に着任し、その後、生涯楽長を務める

1618年 30年戦争が勃発1620年代後半、戦況の悪化とともにDresden楽長としての仕事は中断

1628年 再び Venezia を訪れ一年以上滞在し、Claudio Monteverdi に師事1629年 帰国後、Symphoniae sacrae第一版を出版

Heinrich Schütz (1585 – 1672, Dresden)

1633~1635年、1641~1644年、デンマーク=ノルウェイ王 Christian IV. (1577 – 1648)からの要請を受け、 Kopenhagen でデンマーク上級楽長に就任

Hannover, Wolfenbüttel, Gera, Weimar, Zeitz宮廷の音楽顧問(musikalischer Ratgeber)1636年 小宗教協奏曲 (Kleinen geistlichen Konzerte)の第一版1639年 第二版1647年 Symphoniae sacrae 第二版1648年 宗教的合唱曲集1650年 Symphoniae sacrae 第三版

1656年 Georg I世が亡くなり、Johann Georg II世がSachsen王に即位長老(ältester)楽長の称号が付与

1672年 Dresden で心臓発作により87歳で没

Heinrich Schützangeblich 1670 porträtiert.

30年戦争:Dreißigjähriger Krieg (1618 – 1648)

1618 – 1623 : ボヘミア・プファルツ(Böhmisch-Pfälzischer)戦争1625 – 1629 : デンマーク・ニーダーSachsen(Dänisch-Niedersächsischer)戦争

デンマークChristian IV世の介入と紛争1630 – 1635 : スウェーデン(Schwedischer)戦争1635 – 1648 : フランス・スウェーデン(Schwedisch-Französischer)戦争

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Kurfürst Johann Georg I.

Christian IV.

Die Himmel erzählen die Ehre Gottes, SWV 3861648 in Geistliche Chor-Music, Op.11 (No.18)

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ドイツのBaroque音楽 初期Baroque

Jan Pieterszoon Sweelinck (スウェーリンク) (1562.4 – 1621.10.16, Amsterdam)

Sweelinck はオランダの作曲家・Organist、デーフェンテル (Deventer) 出身Netherlands鍵盤楽派の頂点:フランドル楽派の最後対位法は複雑で、洗練され、Bach 以前の鍵盤音楽を代表する作曲家

声楽にも熟練した作曲家で、250曲以上の声楽曲Venezia の Gabrieliの作品のような豊かさや複雑さ、空間的感覚England鍵盤楽派のような装飾や、堅苦しくない形式即興演奏にも長け、70曲以上の鍵盤曲は、1600年頃の Amsterdam風即興の要素を多く含む

教師としての影響力:門下に、北ドイツ・Organ楽派の作曲家を輩出Jacob Praetorius der Jüngere* (1586 – 1651)Heinrich Scheidemann (1596 – 1663)Paul Siefert (1586 – 1666)Samuel Scheidt (1587 – 1654)Gottfried Scheidt (1593 – 1661)

19. Toccata / Müller Orgel 1741 Mariakerk Oosterwijtwerd

Halle/Saale出身1603年 Halle/Saaleのモリッツ教会(Moritzkirche)でOrganist助手 (Hilfsorganist)1607~1609年、AmsterdamのJan Pieterszoon Sweelinckに入門1609年 Halleに戻り、Magdeburg大司教区の管理官、Brandenburg辺境伯Christian

Wilhelmにより、Halleの宮廷Organistに任命1614~1616年、Michael Praetorius と一緒に着任

Praetorius はその後、Halle宮廷で楽長となり、Scheidt は Brandenburg 辺境伯の宮廷楽長となります.

Organの構造についての知識が深い1618年にEisleben、1619年にMichael Praetorius, Heinrich Schütz, Johann Stadenと共にBayreuthへOrganの復旧

Johann Staden(1581, Nürnberg – 1634), Bayreuth, Dresden, Nürnbergで活躍1624年 Tabulatura* nova を出版この曲集は鍵盤楽器(Organ、Clavichord)の為の作品で、ドイツで最初に印刷された鍵盤音楽の代表五線による記譜が導入されている

1620年 大歌曲集Cantiones sacraeを出版1621年 教会協奏曲集Concertus sacriを追加出版1621年、1622年、1625年、1627年 器楽曲集(Ludi musici)を出版

*Tabulatura (Tablature, Tabulature) は、記譜法の一種で、楽器固有の奏法を文字や数字で表示ラテン語 tablatura : 一覧表が語源 英語 table

北ドイツ・Organ楽派 (Norddeutsche Orgelschule)

Samuel Scheidt (1587 – 1654)

1628年 Scheidt は雇い主から離れる:Halleで行われた再カソリック化運動で、市の音楽監督、Christian Gueintzとの抗争

同じ年に、Halle市民は彼のために、Halleの3大教会 ; マルクト教会 (Marktkirche Unser Lieben Frauen), 聖マウリティウス教会 (St. Mauritius / Moritzkirche), 聖ウルリヒ教会 (St. Ulrich)

の音楽監督職位を用意

1631年 4巻の宗教的協奏曲を出版:前書きに、守るべき演奏環境についての注釈1644年 70のSymphonieを出版:宗教的協奏曲に挿入したもの1650年 最後の作品、Görlitzer Tabulatur:4声の練習用コラール集を出版

南ドイツの音楽はイタリアからの影響を大きく受けたのに対して、北ドイツの音楽、Scheidtも影響を受けているものの、独自の技法が多く見られるコラール前奏曲に定旋律変奏技法など

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Heinrich Scheidemann

Samuel Scheidt - Nun Komm der Heiden Heiland

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ドイツ音楽の成り立ち

ドイツのBaroque音楽 初期Baroque

北ドイツ・Organ楽派 (Norddeutsche Orgelschule)

Michael Praetorius (1571 – 1621)

Creuzburg (Eisenachの近郊)出身1587年 Frankfurt (Oder)のマリエン教会(Marienkirche)のOrganistであった兄が亡くなった後を継承1592年頃 Braunschweig-Lüneburg公国の公爵、Heinrich Julius (Braunschweig-Wolfenbüttel)候のWolfenbüttel宮廷付きOrganistに着任1604年 Thomas Mancinusの後継として、宮廷楽長(Hofkapellmeister)

1596年 Gröningen(Sachsen-AnhaltのBörde郡にある街)城の主席Organistに着任

1613年 Dresden、SachsenのJohann Georg選帝侯の息子、Friedrich Ulrich公爵から、高齢の楽長 Rogier Michaelの後継者として招聘を受け、音楽顧問となる

1617年 Sondershausen宮廷(Kyffhäuserkreis郡、Thüringen)からの招聘、Schwarzburg伯爵の楽団を再編成1619年 曲集Polyhymnia exercitatrixを出版

Gröninger Orgel / Gröninger Schlossorgel

1613 – 1617年頃に作曲された、ルター派のコラールに基づく歌と器楽(楽器は特定なし)による曲集で、全15巻を構想“Caduceatrix & Panegyrica”(1619)、 “Exercitatrix”(1620)、“Puercinium”(1621)の3巻が完成

ルター派文化の素地+Venezia 楽派の作品を熟知1613~1616年 DresdenのSachsen宮廷に仕えている時期

複合唱様式によるイタリア音楽を演奏イタリア音楽の影響を受け、教会協奏曲様式を整える

シオンの音楽Musae sioniae (1605 – 10)1000曲以上のコラールと賛美歌の編曲を含む9巻の曲集ルター派教会のための作品を多く残し

舞曲集 Terpsichore世俗音楽集、多彩な舞曲音楽

3巻の論文集『音楽大全 Syntagma musicum』(1614 – 20)この時代の演奏や楽器について詳細な説明と図解

Syntagma Musicum –元々は4巻までの計画I. De Musica Sacra : 教会音楽とその演奏についてII. De Organographia : 楽器についてIII. Termini musici : 専門用語、理論、演奏の練習や訓練について

II. 楽器について:Theatrum Instrumentorum seu Sciagraphia楽器の図解、演奏の説明

III. 16世紀後半から17世紀初頭の演奏の練習について詳細に説明声楽編成の定義と分類、楽器の名前と特徴、多重合唱 等々

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ドイツ音楽の成り立ち

ドイツのBaroque音楽 初期~中期Baroque

北ドイツ・Organ楽派 (Norddeutsche Orgelschule)

Jacob Praetorius (1586 – 1651)Jan Pieterszoon Sweelinck の弟子Hamburg::聖ペトロ教会 (Hauptkirche Sankt Petri) Organist

聖ヤコブ教会 (Hauptkirche Sankt Jacobi) Organist

Heinrich Scheidemann (1596 – 1663, Hamburg)Jan Pieterszoon Sweelinck の弟子Hamburg:聖カタリナ教会 (Hauptkirche Sankt Katharinen) Organist

Franz Tunder (1614 – 1667)Firenze:Girolamo Frescobaldi に師事Lübeck:マリエン教会 (Marienkirche) 首席Organist

マリエン教会伝統の無料演奏会“Abendmusiken“を創立

Matthias Weckmann (1616 – 1674)Dresden:Heinrich Schütz - Sachsen宮廷楽団 (Dresdner Hofkapelle), 聖歌隊員Hamburg:聖ペトロ教会 (Hauptkirche Sankt Petri), Jacob Praetoriusに師事

聖カタリナ教会Organist, Heinrich Scheidemannに師事Dresden 宮殿 (Residenzschloß Dresden), 教会 (Schloßkirche) 宮廷Organistデンマーク:ニュークビン・ファルスター (Nykøbing Falster) 宮廷楽長Hamburg:聖ヤコプ教会 (Hauptkirche Sankt Jacobi) 専属Organist

音楽団体 Collegium musicum 創設

St. Katharinen in Hamburg

Ehemalige Hauptkirche St. Nikolai

Dresdner Hofkirche / Schloßkirche

Johann Adam Reincken (1643 – 1722) おそらくSweelinckと同じDeventer出身Hamburg:聖カタリナ教会のHeinrich ScheidemannにOrgan師事

1663年 Scheidemannを継いでカタリナ教会のOrganist 1665年 Hamburg市民権

1701年 若きBachはLüneburgからHamburgに出向き、Organの演奏などを師事

Reinckenのコラール集„An Wasserflüssen Babylon“を用いた即興演奏曲集Hortus Musicus(音楽の園, 1687)の主題に基くPiano曲(BWV 954, 965, 966)

Reinckenは、二重対位法等に関する理論的著作

Bachは1720年にHamburgを訪れ„An Wasserflüssen Babylon“から即興演奏をReinckenに披露最近、このコラール集のBachによる写本が見つかっている

いろいろと議論された油彩画Johannes Voorhout (1647 – 1723) Häusliche Musikszene;家庭の音楽風景, 1674

Dietrich Buxtehude – viol (?)Johann Theile – holding a canon (?)

Johann Adam Reinken – harpsichordJohann Philipp Förtsch – singer Voorhout – feather hat

Hamburgで音楽家交流の場を提供していた

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ドイツ音楽の成り立ち

ドイツのBaroque音楽 中期Baroque

北ドイツ・Organ楽派 (Norddeutsche Orgelschule)

Dieterich Buxtehude (1637 ca. – 1707)

Helsingborg (Skåne 地方 ; 当時は Denmark, 現在は Sweden) 出身Dieterich Buxtehude (dänisch – Diderik Buxtehude), ドイツで活躍しドイツ的な名前に父親 Johann Buxtehude (Hans Jenssen Buxtehude, 1602–1674)

Holstein 公国 (Holstein 地区 ; Land Schleswig-Holstein 州 ; 当時は独, 現在は Denmark) Bad Oldesloe のOrganistDenmark の北 Zealand の Helsingørの聖オラフ教会 (Danish – Sankt Olai Kirke) Organist

Helsingborg のOrganist (1657–1658)Helsingør の聖マリー教会 (St. Mary’s in Helsingør) のOrganist (1660 – 1668)

Buxtehude が弾いたOrganが残っている

Sankt Olai Kirke / Helsingørs Domkirke Sankta Maria kyrka / Helsingborg Sct. Mariæ Kirke orgel.

Lübeckの聖マリエン教会(St. Marien in Lübeck)のOrganist:Franz Tunderの後継

Tunder が創設した “Abendmusik” (降誕祭の時期に連続して行う、宗教的な演奏会) を引き継ぎ1673年から再開

1705年、若きJohann Sebastian Bach は400km離れた Arnstadt (Thüringen)からLübeckを訪ねている. Buxtehudeを自分の手本として話を聞くために、“Abendmusik” を聴き、Lübeckの卓越したOrganistに会い、レッスンも受けたと思われる. Bachにとって、このLübeckでの滞在の意味は大きく、3ヶ月近く滞在している. Bachは音楽活動だけでなく、Buxtehudeやその前任のTunderがしていた教会の運営についても学んだ. 専門職としての訓練は、Bach のその後に大きな影響を与えている.

Scheidemannの後任は、末娘 Anna-Dorotheaと結婚した、Johann Adam ReinckenReinckenの娘Maria Margarethaは、弟子、Hamburg聖ヤコプ教会のOrganistとなるAndreas Knellerと結婚Tunderの後任は、娘Anna Margaretheと1668年に結婚した、 Dieterich BuxtehudeBuxtehudeの後任は、娘Anna Margretaと結婚したJohann Christian Schieferdecker

この様な結婚は伝統となっていた模様:婚姻と継承の順序は様々、音楽(楽譜、書籍)の継承には有効

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Buxtehude : Niedersachsen, Stade郡Helsingborg ヘルシンボリ, Skåne スコーネ県, Sverige (Sweden)の南Helsingør ヘルシンゲル, シェラン島Sjælland,英 Zealand ; Danmarkの北

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ドイツ音楽の成り立ち

ドイツのBaroque音楽 中期Baroque

北ドイツ・Organ楽派 (Norddeutsche Orgelschule)

Dieterich Buxtehude (1637 ca. – 1707)

鍵盤作品の特徴:前奏曲とトッカータ (Preludes and toccatas)

Buxtehude の作品の核:19曲のOrgan前奏曲自由で即興的な導入部分、厳格に対位法を用いた部分の組合わせFugaとPedal:Organの特徴:Stylus PhantasticusJ.S.Bach に強い影響を与え、Bach も Toccata と Fugue に同じ技法

4声の曲が殆ど、3~5声部のPolyphony音楽BuxWV 150:5声部、Manual 3声、Pedal 2声

Hauptorgel – Große Orgel

Lübeck のマリエン教会 (Marienkirche) は1277~1351年に建築ハンザ同盟の都市の富と繁栄の象徴St. Marien 教会は14世紀のOrgan

最初の Große Orgelは、1396年作、1516~1518年に改修32の Register (stop) と2段のManualeとPedal, ゴシックOrgan, 32 ft.のPrincipal (11m)

1942年空襲で破壊、1968年にKemper & Sohnにより作成(復元) 5段ManualとPedal, 100 Register, 8,512 本のパイプ構成

Prelude in G minor, BuxWV 150organ : Lionel Rogg (Geneva, 1936 –), Marcussen-Andersen Organ, Monastery of Sorø, Denmark, 17-22 Sep., 1978

聖ヤコブ教会 (Hauptkirche Sankt Jacobi) のOrgan 17世紀のOrgan

Arp Schnitger 1689~1693年製作4つのManual, Pedal, 60のRegister, 15 のReed、合計約4kmのPipe

第二次大戦後、部分的に修復されますが、元Schnitger の方式を復元現存する最大規模のBaroque Organ

Arp Schnitger (1648, Schmalenfleth – 1719, Neuenfelde)

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聖Jacobi教会のOrgelは、1689~1693年にArp Schnitgerが作成

Arp Schnitgerは、北Europaを中心に100以上のOrgelを作成Hamburgを中心に、GroningenとBerlinの支所から作成、維持SchnitgerのOrgelは、強い低音と歌うような高音を巧く組み合わせ

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ドイツ音楽の成り立ち

ドイツのBaroque音楽 中期Baroque

北ドイツ・Organ楽派 (Norddeutsche Orgelschule)

Dieterich Buxtehude (1637 ca. – 1707)

Kantate3つの異なる分野のテキスト形式、作曲技法を使い分け:教会Kantateの形式を整備・聖書(詩編)のテキスト:協奏曲形式に当てはめ、独奏と Tutti の音楽(声楽協奏曲)

必要な(多くの)場合には序奏 Sonata ・典礼句のテキスト:返礼歌、ドイツ語コラールをホモフォニー音楽、協奏曲形式・聖書注解書のテキスト:詩節(有節詩)を Aria 形式

声楽協奏曲:Concertato 様式に近く、モティーフを独奏とTutti、合唱と器楽で協奏Aria:Ritornèllo、繰り返し、有節の変奏;C. Monteverdi, G. Carissimi に似ている

管弦楽法:中声部の充実と多様性Viola, Viola da braccio, Violetta, Viola da gamba 等、多様な楽器Viola da gamba:名手、高度な技巧の独奏楽器としても使っている

管楽器は、古風な楽器(Bomdardo / Bass Shawm)などを採用している例もある

Bomdardo / Bass Shawm

Dieterich Buxtehudes の作品は Buxtehude-Werke-Verzeichnis (BuxWV) で分類

135曲の声楽曲 (BuxWV 1–135)100曲以上のKantateと宗教的協奏曲一連の受難曲 „Membra Jesu nostri“ (BuxWV 75)1曲 Missa brevis (BuxWV 114)数曲 Oratorien (大半が現存していません)

89曲 Organ曲 (BuxWV 136–225)42曲自由曲 (Toccaten, Präludien, Fugen, Canzonen und Ostinatowerke)47曲コラール作品 (choralgebundene Werke)

26曲 Cembalo曲 (BuxWV 226–251)20曲組曲6曲変奏曲

24曲弦楽器と通奏低音のための作品 (BuxWV 252–275)14曲 Triosonaten10曲 Sonaten

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Ritornèllo : Baroque時代の協奏曲に多く使う形式主題を何度も鋏み繰り返し進行する

Kantate - Gott fähret auf mit Jauchzen Buxwv 33

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ドイツ音楽の成り立ち

フランスのBaroque音楽 初期から中期Baroque

Bourbon王朝の統治、Versailles文化Ballet de cour / Air de cour17世紀前半まで宮廷バレエ (Ballet de cour) や宮廷歌曲 (Air de cour ; Lute伴奏による世俗歌曲)Air de cour:音楽の繰り返しに異なる歌詞が付く、有節歌曲;韻律音楽1650年頃 イタリア出身のマザラン枢機卿(1602 – 1661)が、イタリアのOperaを紹介

Firenze 出身 作曲・舞踏家Charles I世 (Guise 公) の公子 Roger de Lorraine に才能を認められてフランスへ王の夜のバレ(Ballet royal de la Nuit) に出演し、Louis XIV世に気に入られ、国王付き器楽曲作曲家、踊り手1661年にLouis XIV世が即位;王の宮廷音楽監督 12月に Lully はフランスに帰化バレエで成功後、Operaの作曲にも取り組み、フランスOperaの創始者

Jean-Baptiste Lully (1632 – 1687)

フランスOperaは、最初からイタリア伝統のOperaへの対抗

Louis XIV.世は全ての芸術分野で独自フランス的な表現を要求Lully に、Louis XIV世がOperaの制作を全幅の信頼をもって任せる結果として、フランスの音楽は多様な選択肢を持つ

ドイツでは、多くの宮廷がLullyの音楽だけでなくフランスの作曲家の音楽を輸入Hannover, Celle, Düsseldorf, Kassel, Darmstadt, Rastatt, Münchenなど

後に、イタリアOperaは、フランスOperaの影響を受け吸収する

フランスでは、Lully 形式は、後100年以上、引き継がれる約50年後、Jean-Philippe Rameau (1683 – 1764) が、初めて新しい形式を、変革を進めて、パリの聴衆を “Lullyst” と “Ramist” に二分

Le Concert spirituel フランスの音楽一族Philidor家のAnne Danican Philidor (1681 – 1731) が1725年に結成

イタリア音楽が嫌いとされていたにも拘わらず、頻繁に演奏イタリアの Giovanni Battista Pergolesi (1710 – 1736) 一行の“La serva padrona”奥様女中が Paris で上演されると、一気にフランス伝統のOperaと新しいOpera buffa の支持争いが始まる

Paris, Palais des Tuileries のスイス軍百人ホール (Salle des Cent Suisses) を会場に年に24回、午後2時~6時 演奏会

1778年6月18日W. A. Mozart Pariser Sinfonie (Sinfonie Nr.31 D-dur KV.297) を初演 Palais des Tuileries

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1722年 Parisで、音楽理論書 “Traité de l‘harmonie” : 和声の約束(和声論)を出版1726年 “Nouveau système de musique théorique” : 音楽理論の新体系を出版1724年と1729年(or 1730年) Clavecin曲集の第2巻を出版Jean-Philippe Rameauは、Jean-Baptiste Lullyと入れ替わってフランスOperaの主たる作曲家となり、Clavecinの作曲家として、François Couperinと並ぶ

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ドイツ音楽の成り立ち

南ドイツ・Organ楽派 (Süddeutsche Orgelschule)

北ドイツ・Organ楽派(Norddeutsche Orgelschule)Organの音楽を発展:Chorale即興曲を発展させてChorale幻想曲が生まれ、Dieterich Buxtehudeに至る

複雑な即興性の高い様式複雑な対位法複雑なPedal操作

17世紀から18世紀:DeutscheのOrgan音楽、Organ自身を発展、Deutsche Baroque音楽の礎

南ドイツ・Organ楽派 (Süddeutsche Orgelschule) 対比的な呼び名Italyから音楽を学んだ音楽家現在は別の国となっているÖsterreich, Bohemia (Čechy)等の作曲家も含めて、分類している

北ドイツ・Organ楽派にも影響南ドイツ・Organ楽派は、東西南北各地を旅行し、各地の音楽を取り入れ各地に伝えた:音楽の交流

南ドイツのOrganを北ドイツと比べると、Italyの楽器に近く、stopが少なく、manual が単一の場合、pedalを持たない場合もあり、簡単な作りの楽器が多い南ドイツの作曲家の音楽は、旋律、和声の明確さ、音響に集中Italyの様式を取り入れた、ToccataのDeutsche版は、即興的な前奏と、Ostinatoを伴った変奏形式のChanonneやPassacaglia、南ドイツ独自の音楽

ドイツのBaroque音楽 中期Baroque

Johann Jakob Froberger (1616 – 1667)

Stuttgart出身 父親 Basilius は1621年から Stuttgart の宮廷楽団の楽長兄弟から4人は Stuttgart 宮廷楽団

1637年:Wienの宮廷Organistイタリア Girolamo Frescobaldiに師事 (3年半)1649年:2回目のイタリアFlorenz, Mantova, Regensburg経由でDresdenのOrgan競技会に招聘、勝者となるフランス Jacques Champion, Denis Gaultier, Ennemond Gaultierらと交流1650年:Utrecht, Brüssel, 1652年:Parisで演奏会Louis Couperin, Denis Gaultierと交流1654年:ドイツ、オランダ、英国、フランスへ1657年、新皇帝 Leopold I 世体制で、Wien 宮廷楽団の縮小で、失職

Johann Jakob Froberger

1662年:Württemberg = Mömpelgard 伯領に就職現在のフランス、Franche-Comté地域圏、スイスとの国境エリクール城 (Schloss Héricourt)に滞在

Madrid へ旅行、エリクール城の食堂で脳卒中の後遺症で逝去この地での作品は未発見が多い

国際派のFrobergerは、Europeの様々な異なる形式を応用後進の作曲家 Dietrich Buxtehude, Georg Muffat や Johann Pachelbel に影響Johann Sebastian Bachも良く研究

Froberger 記念碑 (Schloss Héricourt)

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ドイツ音楽の成り立ち

南ドイツ・Organ楽派 (Süddeutsche Orgelschule)

ドイツのBaroque音楽 中期Baroque

Johann Jakob Froberger (1616 – 1667)

鍵盤曲:Toccaten, Capriccios, Ricercare, Fantasien, Kanzonen, 組曲や組曲集多くの作品で、分割ショートオクターブ (kurzer gebrochener Oktave)配列を採用

ショートオクターブ (kurzer Oktave)初期の鍵盤楽器で、低音域を拡張する鍵と音の割り当てを変則的にして、鍵盤などの機構を少なくて済むようにする「楽器の小型化=音域の拡張」の工夫

分割ショートオクターブ (kurzer gebrochener Oktave)同時に演奏されることのない、2つの音を一つの鍵盤に装着する

16世紀の楽器にから用いられ、17世紀後半に低音域に臨時音が多く用いられるようになると、分割オクターヴを用いるようになる

kurzer gebrochener Oktave付きの鍵盤

Johann Pachelbel (1653 – 1706)

透明感の高い、複雑でない、旋律や和声感を明確にする対位法様式を好む音楽は技巧的ではなく、和声はDieterich Buxtehudeのような大胆な和声は使っていない

室内楽、声楽曲で斬新な楽器の組み合わせを合奏に取り入れている:Buxtehudeの影響宗教協奏曲からCembalo組曲までの多様な作品の中で、多様な形式感と技法規模の大きな声楽曲は、当時のイタリアCatholic音楽の影響を受けた様式

Nürnberg出身Nürnberg楽派、聖Sebaldus教会(Sebalduskirche)の楽師 Heinrich Schwemmer、OrganistのGeorg Caspar Weckerに初期教育を受ける

Pachelbelの作品は、当時人気があり、優れた教師として弟子が多く、南方および中部ドイツ楽派を形成

作品は、Canon in Dが有名Organ曲Chaconne in f moll, Toccata in e moll, 鍵盤変奏曲の“Hexachordum Apollinis”

南方ドイツ楽派の作曲家、Johann Jakob Froberger, Johann Caspar Kerllイタリアの作曲家、Girolamo Frescobaldi, Alessandro Pogliettiフランスの作曲家、Nürnbergの伝統に大きく影響を受ける

St. Sebald in Nürnberg, auch Sebalduskirche

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ドイツ音楽の成り立ち

南ドイツ・Organ楽派 (Süddeutsche Orgelschule)

ドイツのBaroque音楽 後期Baroque

Johann Pachelbel (1653 – 1706)

1673年 Wien:聖Stephen大聖堂 (Stephansdom)の副OrganistWien:Habsburg皇帝の中心で文化要地、イタリアの音楽が支配的Wienで5年間過ごし、南方ドイツやイタリアからのCatholic音楽作曲家の音楽を吸収

1677年 Eisenach:Johann Georg I 世, Sachsen-Eisenach伯爵の宮廷で、宮廷OrganistEisenachで、Johann Ambrosius Bachと親しくなり、子供達の教師となる

1678年6月 Erfurt:PredigerkircheのOrganistに就任Erfurtは、Bach一家の街で、Ambrosiusの娘、Johanna Judithaの名付け親となり、長男 Johann Christoph Bach (1671 – 1721)を教え、Johann Christian Bach (1640 – 1682 ; Ambrosiusの従兄弟) の家に居住Erfurtに12年間留まり、ドイツOrgan作曲家の先導者となる評価を確立

Predigerkirche Erfurt

1690年9月1日 Stuttgart:Magdalena Sibylla von Hessen-Darmstadt公爵夫人配下、Württemberg宮廷の楽師、Organistの職位大同盟戦争(=九年戦争、=Pfälzischer Erbfolgekrieg ; Pfalz継承戦争)でフランスからの攻撃を回避

1692年11月8日 Gotha:AugustinerkircheとMargarethenkircheの街のOrganist(Stadtorganist)に就く1693年 礼拝用音楽曲集、Acht Chorale zum Praeambulieren ; 8曲のChorale前奏曲集 (第一部)を出版

1695年 Nürnberg:聖Sebaldus教会のOrganistかつての師匠、Georg Caspar Wecker(1695年4月20日逝去)の後任室内楽曲集“Musicalische Ergötzung”、6曲のAriaと変奏曲、鍵盤曲集“Hexachordum Apollinis ; Apolloの六弦琴”(Nürnberg, 1699)を出版

Hexachordum Apollinis をDieterich Buxtehudeに献呈

晩年に、イタリアに影響された Concertato Vesper(協奏曲風晩祈)と、90曲を超えるMagnificat fugueを作曲

1706年3月 Johann Pachelbel は52歳で亡くなり、9日に聖Rochus墓地 (Rochusfriedhof, Nürnberg)に埋葬

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南部の歌唱的な音楽様式中部の定旋律や対位法を用いた様式上手く統合

Ciacona in f-moll

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ドイツ音楽の成り立ち

ドイツのBaroque音楽 後期Baroque

ÖsterreichのSteiermark州、Langegg bei Graz ;現在のBezirk Graz-Umgebung(Graz周辺地区)のHirtenfeldの出身の作曲家、音楽理論家、教育理論家

1685年から1688年 BayernのIngolstadtのSt. Moritz 教会のOrganistこの時期の作品に、Bologna作曲家の影響、イタリアに旅行していると推察

1690年代 Wien:皇帝Leopold I 世に認められるMassなどの作品が認められる契機となり、その後、継続して、支援を受ける

1698年 Leopold I 世は、Fuxを宮廷作曲家とする1700年 再び、イタリアに旅行し、Romeで勉強

Palestrinaへの畏敬の念を持ち、後のFuxの音楽教育に大きな影響を受ける

1725年 Fuxの著書:“Gradus ad Parnassum (Parnassus ;芸術の山への階梯)”対位法についての理論書、教育書Latin語による著作:Renaissance時代のpolyphony音楽、Palestrina派の様式Renaissance時代の対位法(古典対位法)について音楽教育の課程

この著書を時の皇帝 Karl(Charles) VI 世に献呈

Haydnは、自分自身も対位法については参考にすることが多く、若きBeethovenにも推薦Mozartも、この写本を入手したと記述

Johann Joseph Fux (1660–1741)

第一部:音楽表現(Musica Speculativa)の理論の概要と、数値比としての音程について分析簡単な講義の形で、音楽を数学的な観点:Renaissance時代の理論家の理論から古代ギリシアまで数学的な比率の結果として広い音程から半音までの音程が作られること音程を均一に分割する必要性の理由と平均律Marin Mersenne (1588 – 1648, French)の12平均律や、Marcus Tullius Cicero (106 – 43 BC, Rome)やAristotélēs (384–322 BC, Greek)等の理論も引用

第二部:Musica Pratica(音楽の実践、練習)、対位法、Fugue、多重対位法、音楽感について、宗教音楽の作曲について、礼拝用の作品、Recitativo様式について説明、意見、考え方会話形式:生徒役 Josephusが質問し、教師役 AloysiusがPalestrinaの考え方を説明

Josephus ; Johann Joseph Fux, Aloysius ; Giovanni Pietro Aloisio Sante da Palestrina 20

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ドイツ音楽の成り立ち

ドイツのBaroque音楽 後期Baroque

Jan Dismas Zelenka (1679–1745)

Bohemia(独 Böhmen, 現在のČeská)のLauniowitz出身Zelenkaの父親、Jiří はLauniowitzの学校長でOrganistPrahaにあるJesus会の大学、Clementinum (Klementinum)で音楽教育

PrahaでHartig家のLudwig Joseph男爵 (1685 – 1735)に仕える男爵は、音楽、楽器技術に長け、イタリアの作曲家とも交流膨大な音楽作品の収集蔵書を所有

1710年頃 Dresdenの王宮OrchestraのViolone奏者に就くJohann Hubert von Hartig伯爵(1683 – 1718)が、Dresdenの王宮楽師に推薦

Dresdenでは、特にCatholic王宮教会のための宗教音楽の作曲に傾注Dresdenでの最初の作品は:“Missa Sanctae Caeciliae” (c. 1711)この曲の印象は大きく、Zelenkaの評価を決定的にし、厚遇を受ける

18世紀中期のDresden : Friedrich August I 世 Sachsen選帝侯

1716~1719年 Wien:Habsburg皇帝の楽長、Johann Joseph Fux の許で音楽教育1722~1723年 Praha:Karl VI 世の戴冠式の催し“Sub olea pacis et palma virtutis conspicua orbi regia Bohemiae Corona”、聖Václav(Wenceslaus I世, Bohemia伯)についての劇音楽を指揮これらの期間を除いて、Dresdenに留まっている

1726年1月 “Inventarium rerum Musicarum Variorum Authorum Ecclesia Servientium”(1726-1739)という目録に、自分の作品や収集した他の作曲家の作品を登録し始め、この時期のDresdenの音楽の状況を表す重要な資料となっている

1729年7月 楽長が亡くなり、1734年まで楽長代理1792年5月18日 Sinfonia (ZWV 190)を作曲

Sachsen選帝侯でPoland王、August II 世の誕生日を祝う催事で演奏

Katholische Hofkirche in Dresden1980以降 Kathedrale Sanctissimae Trinitatis

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ドイツ音楽の成り立ち

ドイツのBaroque音楽 後期Baroque

Jan Dismas Zelenka (1679–1745)

1734年 Dresden宮廷、教会作曲家の職位1736年11月 Johann Sebastian Bach (1685 – 1750)を生徒として迎える

この他にも、Zelenkaの時代以降に、有名になっている楽師を教育Johann Joachim Quantz (1697 – 1773) : Friedrich II 世、Friedrich der Große(König von Preußen)の宮廷のFlautist Johann Georg Röllig (1710 – 1790) : Georg Philipp Telemann, Johann Georg Pisendel, Sylvius Leopold Weissらの同時代、同輩の作曲家

Zelenkaは、浮腫が原因で1745年12月23日に亡くなり、24日に埋葬Zelenkaの作品、音楽資産はZelenkaの周囲の人から、Maria Josepha von Österreich ; Sachen選帝侯妃、Poland王妃によって買い上げられ、宮廷の財産

Maria Josepha von Österreich, Kurfürstin von Sachsen

Zelenka memorial site at the Old Catholic Cemetery in Dresden

Kleine Brüdergasse, Dresden の記念碑Zelenka's last place of residence.

Zelenkaの作品の特徴大胆な作品の構造、大胆な和声進行、習熟した対位法技巧的で演奏が難しいとされる複雑なFugue、装飾の多いAria、Galante(素朴で装飾の少ない)様式の舞曲、Baroque recitative、Palestrina的なChorale、技巧的な協奏曲予想できないような転調、挑戦するような曲の展開Zelenka自身がViolone奏者あったため、特に低音楽器の使い方は高い要求技巧的で幅広い表現力を要求:通奏低音に曲を先導するような、複雑なリズムを持った、速い動きZelenkaの音楽は、Czechの民謡の影響、伝統を継承

Zelenkaの作品目録Wolfgang Reichの主題目録 Jan Dismas Zelenka: Thematisch-systematisches Verzeichnis der musikalischen Werke (ZWV) (音楽作品の主題分類目録)と、Janice Stockigtの論文、“Jan Dismas Zelenka : Dresden宮廷のBohemiaの音楽家”に収録

Zelenkaの作品数は249曲宗教曲の声楽と器楽による音楽が作品の中心で、20曲以上のMasse, 4曲の大規模OratorioとRequiem, 2曲のMagnificatとTe Deum, 13曲のlitany(連祷曲), 多くの詩篇, Hymn, Antiphonなど純粋な器楽曲:6曲のtrio sonata, quartet sonata, 5曲のCapriccio, Hipocondrie(French overture), Concerto, Overture, Symphony

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Laudate pueri in D-major, ZWV 81

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ドイツ音楽の成り立ち

ドイツのBaroque音楽 後期Baroque

Johann Mattheson (1681–1764)

Hamburgの裕福な商家出身海外の言葉(英語、フランス語、イタリア語、Latin語)と音楽分野(歌唱、Violin、Organ、Cembalo)の両方で広い範囲の教育を受ける

1703年 Georg Friedrich Händelと知り合い生涯の友人となるお互いの知識や経験を交換し、音楽感についての差について議論を繰り返す

1704年 宮廷の楽長(Hofmeister)に就任1706年 秘書官と英国の特命使節、外交官を本業とする1715年 Hamburg大聖堂の教区牧師1718年 Hamburg大聖堂の音楽監督

1728年 聴覚が悪化し、徐々に聴覚を失い、Oratorioを上演できない事態となり、音楽監督を辞職この後、Matthesonは音楽理論書を書き始める

通奏低音について : Generalbaßschule (1731)Organistのための練習曲 ; Die exemplarische Organistenprobe (1731)旋律についての中心となる知識、基本原理と音楽の構成と作曲の技術についての基礎 ; Kern melodischer Wissenschafft, bestehend in den auserlesensten Haupt- und Grund-Lehren der musicalischen Setz-Kunst oder Composition (1737)礼拝堂楽長の全て ; Der vollkommene Capellmeister (1739)

最初の音楽についての刊行誌、Der musicalische Patriot (1728/29)を出版小説などの文学作品を、英語、フランス語、イタリア語、Latin語から翻訳

音楽家の栄誉の門 (Grundlage einer Ehren-Pforte ; 栄誉の門の基礎) (1740)広範囲の著作で149人の音楽家についての経歴を、個人的な関係を通じまとめ、自叙伝の形

Händelが亡くなった翌年、1760年、英国のJohn Mainwaringが、最初の作曲家の経歴書籍Händelの経歴“Memoirs of the Life of the Late George Frederic Handel”を出版

Matthesonは、2年後の1761年、ドイツ語翻訳を出版

1764年4月17日、Matthesonは亡くなり、追悼式で自身のOratorio “Das fröhliche Sterbelied ; 幸せな追悼歌”が演奏された

Exemplarische Organisten-Probe通奏低音についての説明

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ドイツ音楽の成り立ち

ドイツのBaroque音楽 後期Baroque

Johann Mattheson (1681–1764)

Kern Melodischer Wissenschafft : 表紙と内容

Magdeburgの教育熱心な家族の出身音楽は楽器を独学で学びはじめ、10歳頃に最初の作品1697年から HildesheimのGymnasium Andreanumで4年間:楽器を学び、“Singende und Klingende Geographie”を作曲以降、音楽について広い範囲を独学で学ぶ

1701年 Leipzigの法律学校(Jurastudiums)で、Collegium musicum(音楽の仲間)を音楽学生のために創立、Operaの公演を先導1704年 Neukirche(Matthäikirche)、当時は大学の教会(Universitätskirche)の音楽監督(Musikdirektor)に就任

Georg Philipp Telemann (1681 – 1767)

1704年 NiederlausitzのErdmann II 世伯爵、Sorau宮廷の音楽監督 Sorau(現在はPolandの西端の街、Żary)1706年 大北方戦争(Großer Nordischer Krieg, 1700 – 1721)で、スウェーデン軍の侵略を受け脅威が高まり、

おそらく、Sachsen公爵家族の親戚にあたるPromnitz宮廷の推薦で、Eisenachに逃れる1708年12月 Eisenach:Johann Wilhelm von Sachsen-Eisenach (1666 – 1729)公爵の宮廷の楽師長, Kantor就任

Orchestraを組織

1712年 Frankfurt(am Main)の街の音楽監督、2つの教会:Barfüßerkirche(Frankfurt Paulskirche)教会,Katharinenkirche教会の楽長に就任作品の自費出版を始める

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ドイツ音楽の成り立ち

ドイツのBaroque音楽 後期Baroque

Georg Philipp Telemann (1681 – 1767)

1721年から、Hamburg市のCantor Johanneiと音楽監督(Director Musice)5つのLuther派福音派教会(evangelisch-lutherische Kirchen in Hamburg)46年に渡る、作曲と演奏に専念できる創作活動期間週に2曲のCantataと年に1曲の受難曲、個人的、公の催事、追悼や婚礼向けの音楽1660年 Matthias Weckmann創立のCollegium musicumを立て直し、定期的な演奏会も再開

1737年から8ヶ月間 Parisに滞在

*Cantor Johannei は、Gelehrtenschule des Johanneums (Johanneum学院)のKantorを指しています. 創立以来、学校の教師だけでなく、Hamburgの教会の音楽についても責任者となっています. 5つのLuther派福音派教会(evangelisch-lutherische Kirchen in Hamburg ; St. Petri, St. Katharinen, St. Michaelis „Michel“, St. Jacobi, St. Nikolai (Harvestehude地区))

Rathaus

音楽の特徴歌うような旋律、独創的な音色、特に後期の作品では、予測出来ないような和声進行の効果器楽曲はフランスやイタリアの影響、Polandなどの民族音楽的な影響Polyphony音楽は相応しい場合に限り用いる技巧的な器楽曲を好まず、多くの人に親しまれ演奏される曲楽器の扱い方によって、音色、効果を巧く引き出すことで音楽に魅力

Telemannの作品についての総括的な調査研究は、20世紀後半に始まり、作品全体を把握は未だに困難

3600曲以上の作品を残しています. 音楽史の中で最多作曲の早筆、75年という作曲活動期間の長さCantata1曲を作るのに、公爵が到着するまでの3時間しか与えられなかった

Telemannの遺産は、当時の音楽の全分野:開拓者作品は、Martin Ruhnke (1921 – 2004)による作品目録 : Telemann-Werke-Verzeichnis (TWV, 1984-1999)に整理Werner Menke による声楽作品目録 : Telemann-Vokalwerke-Verzeichnis (TVWV, 1982-1983)を含んいる

当時の変化する流行の音楽と、異なる民族の音楽の両方を作曲作曲活動の中心で、率直で自然な感情表現を重んじる「多感様式」に変化

Baroque音楽の情緒論よりは、Rococo様式に近く、Wien古典主義への橋渡し対位法的要素を持ったGalante様式と、ほぼ同一視されている

創作活動の中心となる本質は、歌うような旋律を高める:美しい旋律

17世紀後期から18世紀の著名な作曲家は必然的に多作Telemann:3600曲以上、A. Vivaldi:800曲以上、Händel:600曲以上、J.S. Bach:1100曲以上時代は異なりますがF.J. Haydn:1000曲近く、J.M. Haydn:700曲以上、W.A. Mozart:900曲以上

25Kantate - Lobet den Herrn, alle seine Heerscharen- TWV 1-1061

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ドイツのBaroque音楽 後期Baroque

Georg Philipp Telemann (1681 – 1767)

“Tafelmusik; 食卓の音楽” (1733)

Part IOuverture-Suite, 2 flutes, strings, continuoQuartetto, flute, oboe, violin, continuoConcerto for Flute, Violin and Cello, flute, violin, cello, strings, continuoTrio Sonata, 2 violins, continuoFlute Sonata, flute, continuoConclusion, 2 flutes, 2 oboes, strings, continuo

3巻、18曲からなる、宮廷の宴席で好まれ演奏された室内楽の曲集各々の曲集は、最初に、序曲にあたるOuverture-Suiteがあり、Quartetto, Concerto grosso, Trio Sonata, Solo Sonataなどの器楽曲と、曲集の最後にはFinaleに当たる、Conclusion終曲通奏低音は、Cembaloなどの鍵盤楽器と、独立したViola da Gambaで演奏曲は、教会Sonata形式

Baroque時代のSonata教会Sonata : Sonata da chiesa (church sonata, Kirchensonate)

緩−急−緩−急の4楽章、舞曲風の楽章を含まない室内Sonata : Sonata da camera (chamber sonata, Kammersonate)

急−緩−急の3楽章が多い、舞曲風の楽章を含む

Rezitativについて (1733)理論的実践的な作曲についての論文(Theoretisch-practischen Tractat vom Componiren, 1735)“Augenorgel” (色organ ; Farbenklavier)について(1739)

Augen Orgel (1739)は、1742年にMizlerが、Musikalischen Bibliothek に掲載伝統的な調律方法(Stimmungssystem)について(1767)

新しい調律方法について、Mizler 刊行のMusikalischer Bibliothekに掲載音楽科学文書交流協会に蔵書

Musiktheoretische Werke 音楽理論の著書

Lorenz MizlerのMusikalische Bibliothek1739年版 表紙

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ドイツのBaroque音楽 後期Baroque

Johann Sebastian Bach (1685 – 1750)

1685年3月21日 Eisenach の音楽大家族出身1695年 両親(Johann Ambrosius Bach(1645–1695), Maria Elisabeth Lämmerhirt(1644–1694))の死後

Ohrdruf:兄 Johann Christophの元に1700年 15 歳 Lüneburg:Michaelis-Klosterschule (聖ミカエル修道院付属学校)給費生1703年3月 18歳卒業後 Sachsen-Weimar公国:Johann Ernst 公爵の宮廷楽団、下働きとViolinist1703年7月 ArnstadtのNeue Kirche (バッハ教会)のOrganist

教会での演奏と学生たちの教育 この時期に、最初のオルガン曲を作曲1705年 Lübeckへ旅行:Dietrich BuxtehudeにOrgan演奏を師事1707年 Mühlhausen:St.-Blasius-Kirche(聖ブラジウス教会)のOrganist

遠戚(従姉妹)でひとつ歳上のMaria Barbaraと結婚1708年6月 23歳 Weimar:Wilhelm Ernst公爵の宮廷Organist, 室内楽音楽家に就任1714年 Weimarの宮廷楽長に就任:ドイツ各地で名Organistとして認知1717年8月 Anhalt-Köthen侯国:Leopold侯の宮廷楽長に就任

Sachsen-Weimar 公は辞職を承諾せず、Bachを1ヶ月の間、城に幽閉1720年7月 妻のMaria Barbaraが亡くなり、翌年、楽師の娘で宮廷歌手Anna Magdalene Wilckeと再婚

Köthen時代 Violin協奏曲、管弦楽組曲、ピアノ作品など器楽曲が中心1723年 Leipzig:Thomas教会のKantor(Thomaskantor)4月に就任

ヨハネ、マタイ受難曲、Kantate, Motettoなど声楽を含む曲1750年7月28日 Leipzigで65歳で逝去

Anna Magdalena Wilcke(1701–1760)

Maria Barbara Bach(1684–1720)

Weimar には、2回赴任1. 1703年3月 Johann Ernst III. (Sachsen-Weimar)2. 1708年7月 Wilhelm Ernst (Sachsen-Weimar-Eisenach)1713年7月 Johann Ernst IV. (Wilhelm Ernstの甥)はオランダのUtrechtへ留学以下のような多くの楽譜を入手し、Weimarに戻り、Bachに鍵盤で演奏できるように編曲を依頼

Weimar時代 1708-1717 / Sachsen-Weimar

Weimarer Stadtschloss

VivaldiVivaldiA.MarcelloVivaldiVivaldiTorelliVivaldiB.MarcelloJ.ErnstJ.ErnstTelemannJ.ErnstJ.ErnstVivaldiVivaldiJ.ErnstVivaldiVivaldi

Oboe Concerto B-dur Op.3-9 RV230Vioino Concerto G-dur Op.7-8 RV299Oboe ConcertoVioino Concerto E-dur Op.3-12 RV265Vioino Concerto G-dur Op.3-3 RV31Vioino ConcertoVioino Concerto B-dur Op.4-1 RV383aConcertoConcertoConcertoVioino ConcertoConcertoConcerto2Vioini Concerto a-moll Op.3-8 RV522Vioino Concerto D-dur Op.7-11 RV208aConcerto2violini, violoncello Concerto d-moll Op.3-11 RV5654violini, violoncello Concerto h-moll Op.3-10 RV580

Klavierkonzert D-dur BWV972Klavierkonzert G-dur BWV973Klavierkonzert D-dur BWV974Klavierkonzert C-dur BWV976Klavierkonzert F-dur BWV978Klavierkonzert h-moll BWV979Klavierkonzert G-dur BWV980Klavierkonzert c-moll BWV981Klavierkonzert b-moll BWV982Klavierkonzert C-dur BWV984Klavierkonzert g-moll BWV985Klavierkonzert d-moll BWV987Konzert für Orgel G-dur BWV592Konzert für Orgel a-moll BWV593Konzert für Orgel C-dur BWV594Konzert für Orgel C-dur BWV595Konzert für Orgel d-moll BWV 596Konzert a-moll für 4 Cembali BWV 1065

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ドイツのBaroque音楽 後期Baroque

Johann Sebastian Bach (1685 – 1750)

Weimar時代の20曲以上の教会カンタータ古い教会コンチェルト形式から、RecitativoとDa capo Ariaを中心としたイタリア様式へ作風が変化初期の名作 BWV21ロ短調ミサ曲のCrucifixusに転用された合唱パッサカリア楽章(BWV12)フランス序曲にクリスマスのコラールを組み合わせるというユニークな導入合唱(BWV61)小編成で室内楽的な導入 Sinfoniaをもつ曲が多くなるKöthen 時代の洗練された名作ブランデンブルク協奏曲やヴァイオリン協奏曲への下地となる

教会コンチェルト (concerto da chiesa) 形式Arcangelo Corelli の時代、合奏協奏曲 (Concerto grosso) には2種類の形式教会コンチェルト (concerto da chiesa):Largo や Adagio の楽章と早い Allegro の楽章を繰り返す室内コンチェルト (concerto da camera):組曲のように前奏曲などの導入部、舞曲群から構成

Da capo aria 形式Bach の Kantateによく出てくる形式:序奏から始まり、アリアを演奏し、2回の終止形再び冒頭の序奏に戻り、1回目の終止形でアリアを終わる形式W. A. Mozart や G. Verdi などのopera, 協奏曲などでも多く使い更に発展

パッサカリア (passacaglia) とシャコンヌ(仏) (伊 : ciaccona)3拍子のゆっくりとした主題の旋律を低音で繰り返す:ostinato bassの上で変奏する曲短調をパッサカリア、長調をシャコンヌと区別する場合がある、曖昧

イタリア協奏曲形式:BWV972 - BWV987, BWV592 - BWV596, BWV1065Bach にとって、はじめてイタリア形式の協奏曲に触れる機会

Köthen 時代 1717-1723 / Köthen (Anhalt), Sachsen-Anhalt

Anhalt-Köthen 侯国 Leopold侯

Calvin主義のLeopold候は、教養に富み、好奇心も旺盛で、Protestant派信仰も容認音楽、オペラ、演劇を楽しみ、自身も ViolineやCembaloを演奏Köthenの楽団にはプロイセン王 Friedrich Wilhelm I. の楽師17名を含む優秀な楽団

Leopold von Anhalt-Köthen 侯

Schloss Köthen Spiegelsaal

Köthen時代後のブランデンブルグ協奏曲集(Brandenburgischen Konzerten)平均律クラヴィーア曲集(Wohltemperierten Klaviers)6曲のヴァイオリン・パルティータ集(Violinpartiten)、ソナタ集 (sonaten)

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ドイツのBaroque音楽 後期Baroque

Johann Sebastian Bach (1685 – 1750)

1721年3月21日、BrandenburgのChristian Ludwig辺境伯 (Christian Ludwig von Brandenburg-Schwedt) に、Weimar時代から個別に作曲した協奏曲から6曲を協奏曲集として献呈

Christian Ludwig von Brandenburg-Schwedt

Christian伯はプロイセンの黒鷲勲章を受け、1718年から19年にかけての冬、BachがBerlin を訪ねた際、Christian伯は、1721年春の受勲に際し、演奏できる協奏曲をBachに依頼した模様

フランス語で„Six Concerts avec plusieurs instruments“ ;「いくつもの楽器のための協奏曲」後に、ブランデンブルグ協奏曲 „Brandenburgische Konzerte“ と呼ばれる

Die sechs Brandenburgischen Konzerte ブランデンブルグ協奏曲集

No.6, No.3がWeimarNo.1, No.2, No.4, No.5がKöthen

Six Concerts Avec plusieurs Instruments.Dediées A Son Altesse Royalle MonsigneurCRETIEN LOUIS. Marggraf de Brandenbourg &c:&c:&c:par Son tres-humble & tres obeissant ServiteurJean Sebastien Bach, Maitre de Chapelle de S. A. S.Prince regnant d'Anhalt-Coethen.

Köthen時代に小品集、平均律クラヴィーア曲集の第一巻に着手長短24の全調性による前奏曲(Praeludia)とフーガ(Fugen)を通じて、ポリフォニー音楽を修得出来るよう作られている前奏曲の一部には、息子の教育用とした”クラヴィーア小曲集” からの部分的な転用1722年の完成

鍵盤楽器の平均律は、17世紀初頭には実用化G.Frescobaldi (1583 – 1643)がすでに平均律を使用Jean-Philippe Rameauは和声論 (Traité de l‘harmonie)(1722)Johann Philipp Kirnberger は純正作曲の技法 (Die Kunst des reinen Satzes in der Musik)(1771 – 1779)などで、平均律と不均等律を論じている

Wohltemperirteとは「よく調整された音律」という意味平均律 (Gleichstufige Stimmung) という意味ではない全ての調が演奏可能な調律

Das Wohltemperierte Klavier 平均律クラヴィーア曲集

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ドイツのBaroque音楽 後期Baroque

Johann Sebastian Bach (1685 – 1750)

Leipzig 時代 1723-1730 / Leipzig Sachsen

トーマス学校は寄宿舎制の慈善学校少人数の市の音楽家、カントールが指導するトーマス学校の生徒が、市の音楽演奏活動を実施

毎週、一つのカンタータを作曲1723年から1725年の間におよそ100曲の新しい作品

1896年のLeipzigトーマス学校の写真Bach一家は左手4階(Drittel)に住んでいました

Thomasschule トーマス学校 / Kirchenmusik 教会音楽 – Kantate カンタータ

新約聖書「マタイによる福音書」のキリストの受難を題材福音書からのテキスト(聖句)が使われている受難コラール(Passionschoräle)とPicanderによる宗教的な自由詩によるコラール、Ariaを挿入

Matthäuspassion, BWV 244 マタイ受難曲

正式な題名は、福音史家聖マタイによる我らの主イエス・キリストの受難Passion unseres herrn Jesu Christi nach dem Evangelisten Matthäus

マタイ受難曲は、二部構成全68曲Evangelist 福音史家 (Tenore solo) が聖句にある物語を語り、Jesus, Pilatus, Petro, Judas,大祭司 (Pontifex) Kajaphas 達 (Bass solo) とシオンの娘 (Soprano solo), 罪の女 (Alto solo)などの登場人物群衆は合唱で、Recitativo と Aria などで、物語を進めて情景を描く物語と登場する人々の感情、心象風景を音楽で表現

真実は単純に、悪意や混乱には複雑な対位法合唱は弟子達や一般の群衆には4声部合唱が、イエスに敵意を抱く群衆には8声部の二重合唱群衆がイエスの言葉、Ich bin Gottes Sohn「私は神の子である」を引用する場面:全声部ユニゾンJesus が発言するRecitativoは、常に弦楽器が長い音で伴奏:後光を表現最後の言葉、Eli, eli, lama sabachthani 「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのか」の疑いを示す部分だけは、弦楽器の伴奏はなくなる

オーケストラと合唱 (SATB)とともに2群必要、3時間の音楽1727年4月11日、Leipzigのトーマス教会にて初演 30

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ドイツのBaroque音楽 後期Baroque

Johann Sebastian Bach (1685 – 1750)

Collegium Musicum 音楽の仲間

1729年3月 Bach は Telemann の創設した Collegium Musicum を継承ドイツやイタリアの声楽、器楽の曲を演奏する学生達のアンサンブルで、音楽家達は練習や研究する機会を与える目的

Zimmermannisches Caffee-Hauß (右側), この場所で、音楽会や会合を開催

Leipzig KatharinenstraßeのZimmermannisches Caffee-Hauß 跡に残る石碑プレート

1730年から1740年の間に作曲された作品には、多くの教会音楽の他 Collegium Musicum のために世俗カンタータ (weltliche Kantate)も用意「音楽による劇 (Dramma per musica) 」と題を付けている

カタリーネン通り (Katharinenstraße )Zimmermannischen Caffe-Hauß; 金曜日夕刻 8 時から 10 時までミサ開催時の第2週、火曜日と金曜日

1738年頃 Friedrich 王子の元でCembalistをしていた、Carl Philipp Emanuel (1714 – 1788)を度々訪問1740年 Friedrich II. 戴冠 C. P. E. Bach は宮廷の王室チェンバロ奏者として Potsdamへ移動

Friedrich II. (プロイセン王) Friedrich大帝(1712 – 1786) 1740年即位1772年よりプロイセン王 (König von Preußen)ブランデンブルグ選帝侯 (Kurfürst von Brandenburg)

サンスーシ城内、フリードリッヒ2世によるフルート協奏曲Flötenkonzert Friedrichs II. in Sanssouci 油彩 Adolph Menzel (1850–52)

Carl Philipp Emanuel BachFriedrich II.

老フリッツ(alte Fritz*: Friedrich II.)はJ.S.Bachの同行を望み、新築のサンスーシ宮殿 (Schloss Sanssouci)に招待

1747年5月、J.S.BachはBerlinへ:新しいCembalo5月7日、J.S. Bach は招待を受け訪問

サンスーシ宮殿Berlin の南西約30km、Brandenburg 州のPotsdam 市街の西に建つロココ建築の宮殿

Schloss Sanssouci

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ドイツのBaroque音楽 後期Baroque

Johann Sebastian Bach (1685 – 1750)

Musikalisches Opfer, BWV 1079 音楽の捧げ物

Friedrich 大帝は、与えた主題に基づく6声部のフーガ集を依頼& 2ヶ月後に完成

「音楽の捧げもの」は10曲のCanon、2曲のFuge、1曲のSonataから構成全てが王から与えられた主題

「王の命による主題と付属物をカノン様式で解決した」(Regis Iussu Cantio Et Reliqua Canonica Arte Resoluta) とラテン語の献辞献辞の頭文字 RICERCAR:「フーガ」様式が出来る前の古いイタリア語の名称

プロイセン王 Friedrich II. が作り、そして J.S. Bach によって更に修飾された(とされている)音楽の捧げ物の主題

Correspondierenden Societät der musikalischen Wissenschaften 音楽科学文書交流協会

1747年6月 Johann Sebastian Bach は、14番目の会員この音楽理論についての団体1738年に Bach の生徒であった Lorenz Christoph Mizler によって創設会員は作曲家と音楽理論家で、理論的な論文を回覧できる議論を促し、音楽科学を推し進めることを共通目的

会員となるために肖像画を用意Leipzig の画家:Elias Gottlob Haußmannに依頼音楽の捧げ物の6声部の謎のカノンに手を入れ提出クリスマス聖歌「高き天よりわれは来れり」によるオルガンのためのカノン風変奏曲 (kanonischen Veränderungen für Orgel über das Weihnachtslied “Vom Himmel hoch, da komm ich her„) を提出

“Vom Himmel hoch, da komm ich her„

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ドイツのBaroque音楽 後期Baroque

Johann Sebastian Bach (1685 – 1750)

1748年のはじめに、1733年に作曲した小ミサ曲 (Missa Brevis) に手を入れ拡張

Symbolum Nicenumニカイア信条 : 1732年に作曲Kyrie:1733年2月1日に没したザクセン選帝侯強健王 August II. の追悼のためGloria:August III.の選帝侯継承の祝賀のため (KyrieとGloria (BWV 232a)をAugust III.に献呈)Hosanna:1734年、Leipzig を訪れた王夫妻のために、dramma per musicaを演奏した冒頭部Credo, Santus, Agnus Dei は小ミサから規模を拡大1747年48年:全曲の清書譜を作成、終辞 S. D. G. (Soli Deo gloriaの略)を記述

規模の大きさから、実際の典礼において全曲が演奏されることはなかった全27曲、対位法が用いられ、形式、構成とも多様演奏時間はおよそ2時間これまでの声楽曲をまとめたものが、ロ短調ミサ

Bach は、 Santus の典礼文を一部改変カトリック派 pleni sunt caeli et terra gloria tua 天と地はあなたの光栄にあまねく満ち渡るルター派版 pleni sunt caeli et terra gloria ejus 天と地は彼の光栄にあまねく満ち渡る

h-Moll-Messe, BWV 232 ロ短調ミサ

Die Kunst der Fuge, BWV 1080 フーガの技法

14のFugeと4つのCanon, 未完成の最終19曲目のFugeを除き、全て同じ主題考え得る全種類のFuge技法の本質と技法の構造の規則を含む

1740年代前半に着手、最晩年となる1740年代後半まで作曲と出版の準備未完成のFuge 1曲を残したまま作曲が中断最初の12曲は、1742年に Cembalo独奏を想定して作曲

自筆譜では15曲が1冊12曲の対位法 (Contrapunctus)と3曲のカノン (Canon)

出版譜:1751年初版、1752年第2版単純 Fuge(単一主題もしくは反行形主題) 4曲反行 Fuge(主題と反行形) 3曲多重 Fuge(複数の主題) 4曲鏡像 Fuge(鏡のように楽譜を上下逆転させても演奏可能) 2曲Canon (主題と音程差を持った応答) 4曲Contrapunctus 13番の編曲 Fuga a 2 (rectus), and Alio modo Fuga a 2 (inversus)未完成14番のFuge

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ドイツのBaroque音楽 後期Baroque

Johann Sebastian Bach (1685 – 1750)

1751年出版譜の表紙

Bach の自筆譜面 Contrapunctus I の冒頭 / Berlin 自筆譜 : Staatsbibliothek zu Berlin

Die Kunst der Fuge, BWV 1080 フーガの技法

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