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第 8 話 平治の乱 1 第8話 平治 の乱 保元の乱の後始末 あとしまつ に無理があったために、間もなくまた戦いが起こる。 源氏 げんじ が全 まった く敗 やぶ れて、平氏の 勢 いきお いは朝 あさ の昇 のぼ るように盛んになる。 みなもと よし とも の不平 ふへい 保元の乱に最も手柄 てがら のあったのは、いうまでもなく みなもと よし とも です。 彼は天皇方の大将軍として 軍 いくさ の評議 ひょうぎ の席 せき で、 はかりごと を立てた上に、白河 しらかわ 殿 どの へ押し寄せて行ってからも、最も奮戦 ふんせん して早く勝利 しょうり を収 おさ めた のでした。 ですから、若 し公 こう へい に戦 せん こう を論 ろん じたならば、勿論 もちろん 、彼が第一であるべき筈 はず だったのですが、 実際はちがいました。 よし とも が従 じゅう いの に叙 じょ し、左 まの かみ に任 にん ぜられたのに対して、清盛は正 しょう いの きの かみ から播 はり まの かみ に進 み、ついで大宰 だざいの だい に任じ、間もなく正四位上に昇 のぼ ったので、その地位は遥 はる かに よし とも の上に在 った。 の みならず、初め、 よし とも は、前にも述べたように、この一戦に勝利を得れば、再び源氏の 勢 力 せいりょく を盛 さか んにす ることが出来るであろうと、それを心に望んだればこそ大いに勇 いさ んで 出 しゅつ じん したのだ。 しかし、 戦 たたか いの 終わった後には、父や弟らの 命 いのち いもついにお聴 ゆる しを得ることが出来なかったので、世間からは却 かえ って父 を斬 ったという汚名 おめい をさえ 蒙 こうむ った上に、源氏は淋 さび しく自分一人となった。 又、日頃から望んでいた昇 殿 しょうでん こそは許 ゆる されたが、これとて源氏は自分一人であるのに、平氏は清 きよ もり 始め、より もり 、教 のり もり 、基 もと もり 、重 盛 しげもり などと相 あい なら んで幾 いく にん もあるのです。 もっと も、平氏はただ もり の時から朝廷と の関係が深く、従って官位 かんい も高かったのだから、その点からいえば不思議ではないが、同じく武臣 ぶしん として 殿上 でんじょう に肩 かた を並 なら べる よし とも の身にとっては、これも堪 えられない屈 くつ じょく に感じられた事であったでしょう。 よし とも の苦心 くしん では、この、何もかも平氏に劣 おと って淋しくなった源氏の勢いを盛んにするにはどうしたらよいか? 保 元の乱後に よし とも が専 もっぱ ら苦 しん したのは、これでした。 彼はいろいろと考えた末に、それには当時宮中で 最も勢力のあった少納言 しょうなごん 入道 にゅうどう 信西 しんぜい に近づくのが一番近道 ちかみち であると思ったので、自分の 娘 むすめ 信西 しんぜい の子の 是憲 これのり の妻にして貰 もら いたいと申 もう し込 んだ。 ところが、信西 しんぜい は以前から よし とも の武骨 ぶこつ 一遍 いっぺん なのを嫌 きら っていた ので、「わしの子は学者 がくしゃ であるから、武人 ぶじん の婿 むこ にする訳 わけ にはいかない」といって、はねつけました。 よし とも は立腹 りっぷく したが、これは仕方 しかた のないことであるから、 諦 あきら めていると、間もなく 信西 しんぜい はその子のしげ のり のために、 平清盛 たいらのきよもり の娘を貰 もら って娶 めあ わせた。 武人の婿にはしないといった口のまだ乾 かわ かぬうちに、同 じく武人の清盛の婿としたのです。 よし とも はこれを聞くと大いに怒って、折 おり あれば 信西 しんぜい に対して怨 うら みを晴 らそうと決心した。 一つは彼に近づくことが出来なくなると共に、彼のために父や弟らを斬らしめられ た遺恨 いこん も蘇 よみがえ って来たのでしょう。 少納言 しょうなごん 入道 にゅうどう 信西 しんぜい

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第 8話 平治の乱

1

第8話 平治へ い ぢ

の乱

保元の乱の後始末あとしまつ

に無理があったために、間もなくまた戦いが起こる。

源氏げ ん じ

が全まった

く敗やぶ

れて、平氏の 勢いきお

いは朝あさ

日ひ

の昇のぼ

るように盛んになる。

源みなもと

義 よし

朝とも

の不平ふへい

保元の乱に最も手柄てがら

のあったのは、いうまでもなく 源みなもと

義 よし

朝とも

です。 彼は天皇方の大将軍として 軍いくさ

の評議ひょうぎ

の席せき

で、 謀はかりごと

を立てた上に、白河しらかわ

殿どの

へ押し寄せて行ってからも、最も奮戦ふんせん

して早く勝利しょうり

を収おさ

めた

のでした。 ですから、若も

し公こう

平へい

に戦せん

功こう

を論ろん

じたならば、勿論もちろん

、彼が第一であるべき筈はず

だったのですが、

実際はちがいました。

義 よし

朝とも

が 従じゅう

五ご

位いの

下げ

に叙じょ

し、左さ

馬まの

頭かみ

に任にん

ぜられたのに対して、清盛は 正しょう

四し

位いの

下げ

安あ

芸きの

守かみ

から播はり

磨まの

守かみ

に進

み、ついで大宰だざいの

大だい

弐に

に任じ、間もなく正四位上に昇のぼ

ったので、その地位は遥はる

かに義 よし

朝とも

の上に在あ

った。 の

みならず、初め、義 よし

朝とも

は、前にも述べたように、この一戦に勝利を得れば、再び源氏の勢 力せいりょく

を盛さか

んにす

ることが出来るであろうと、それを心に望んだればこそ大いに勇いさ

んで 出しゅつ

陣じん

したのだ。 しかし、 戦たたか

いの

終わった後には、父や弟らの 命いのち

乞ご

いもついにお聴ゆる

しを得ることが出来なかったので、世間からは却かえ

って父

を斬き

ったという汚名おめい

をさえ 蒙こうむ

った上に、源氏は淋さび

しく自分一人となった。

又、日頃から望んでいた昇 殿しょうでん

こそは許ゆる

されたが、これとて源氏は自分一人であるのに、平氏は清きよ

盛もり

始め、頼より

盛もり

、教のり

盛もり

、基もと

盛もり

、重盛しげもり

などと相あい

並なら

んで幾いく

人にん

もあるのです。 尤もっと

も、平氏は忠ただ

盛もり

の時から朝廷と

の関係が深く、従って官位かんい

も高かったのだから、その点からいえば不思議ではないが、同じく武臣ぶしん

として

殿 上でんじょう

に肩かた

を並なら

べる義 よし

朝とも

の身にとっては、これも堪た

えられない屈くつ

辱じょく

に感じられた事であったでしょう。

義 よし

朝とも

の苦心くしん

では、この、何もかも平氏に劣おと

って淋しくなった源氏の勢いを盛んにするにはどうしたらよいか? 保

元の乱後に義 よし

朝とも

が 専もっぱ

ら苦く

心しん

したのは、これでした。 彼はいろいろと考えた末に、それには当時宮中で

最も勢力のあった少納言しょうなごん

入道にゅうどう

信西 しんぜい

に近づくのが一番近道ちかみち

であると思ったので、自分の 娘むすめ

を信西 しんぜい

の子の

是憲これのり

の妻にして貰もら

いたいと申もう

し込こ

んだ。 ところが、信西 しんぜい

は以前から義 よし

朝とも

の武骨ぶこつ

一遍いっぺん

なのを嫌きら

っていた

ので、「わしの子は学者がくしゃ

であるから、武人ぶじん

の婿むこ

にする訳わけ

にはいかない」といって、はねつけました。

義 よし

朝とも

は立腹りっぷく

したが、これは仕方しかた

のないことであるから、諦あきら

めていると、間もなく信西 しんぜい

はその子の成しげ

範のり

のために、平 清 盛たいらのきよもり

の娘を貰もら

って娶めあ

わせた。 武人の婿にはしないといった口のまだ乾かわ

かぬうちに、同

じく武人の清盛の婿としたのです。 義 よし

朝とも

はこれを聞くと大いに怒って、折おり

あれば信西 しんぜい

に対して怨うら

みを晴は

らそうと決心した。 一つは彼に近づくことが出来なくなると共に、彼のために父や弟らを斬らしめられ

た遺恨いこん

も 蘇よみがえ

って来たのでしょう。

少納言しょうなごん

入道にゅうどう

信西 しんぜい

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第 8話 平治の乱

2

さてこの信西 しんぜい

というのは、実名は藤原道みち

憲のり

といい、不比等ふ ひ と

の子の武智む ち

麻呂ま ろ

の遠孫えんそん

であって、大 学 頭だいがくのかみ

季すえ

綱つな

の孫にあたり、もとは儒者じゅしゃ

の家に生まれたのですが、その妻が嘗かつ

て後白河ごしらかわ

天皇の乳母う ば

を勤つと

めたことが

あったために、天皇がご即位になると、俄にわ

かに厚い信任しんにん

を受けて、万事につけて天皇の相談相手となり、

大いに勢力を得たのです。

保元の乱に天皇方が勝利を得たのも、一つは彼が最初から抜ぬ

け目め

なく手て

配くば

りをしたためであったとも

言われるくらいで、見み

ように依よ

っては、保元の乱は藤原氏の摂関せっかん

政治せいじ

に復かえ

そうとする左大臣頼長よりなが

の野心やしん

と、

院政いんせい

となってから自然に出来た院の近臣きんしん

の勢 力せいりょく

との衝 突しょうとつ

であったともいえるのであります。 そして近

臣側が勝利を得たのは、即ち少納言しょうなごん

入道にゅうどう

信西 しんぜい

が勝利を得たのであって、信西 しんぜい

の勝利は武士の努力に依っ

たのですから、この乱の始まった後に、彼が武士の中で最も勢いのよい平氏と結むす

んで、ますます自家じ か

の勢

力を強めようとしたのも不思議ふ し ぎ

はないのです。

けれども、これがために武士の一方の棟 梁とうりょう

である源氏の義 よし

朝とも

の感 情かんじょう

を害がい

したのは失策しっさく

でした。 多

分、彼は自分の 勢いきお

いが 頗すこぶ

る盛さか

んなので、大抵たいてい

の無理む り

なら通して通らぬことはないと思ったのでしょう。

しかし、まだこれだけならばよかったのですが、信西 しんぜい

にとって不利ふ り

なことが続いてもう一つ起こった。

それは藤原信頼のぶより

を敵てき

にまわしたことです。 次にその事情じじょう

を述の

べます。

藤原信頼のぶより

後白河ごしらかわ

天皇は在位ざいい

僅わづ

か四年で、御位みくらい

を御子第 78 代二條にじょう

天皇に譲ゆづ

り、上 皇じょうこう

となって院政いんせい

を始はじ

められ

た。 政治のご相談そうだん

相手あいて

はやはり信西 しんぜい

でしたが、その頃、上皇のお気に入りの臣下に藤原信頼のぶより

という者が

いて、何かというと、信西 しんぜい

と意見の合わないことが多かった。

信頼のぶより

は道みち

長なが

の兄の道隆みちたか

の八世の孫でしたが、その家は道長の系統に圧あっ

せられて、久しく高い官位かんい

に上

った者もなく、父も、祖父も、皆年を取ってから 漸ようや

く従三位に叙じょ

せられたくらいでしたのに、信頼のぶより

の世

になってからは、後白河ごしらかわ

天皇のおぼしめしで、頻しき

りに官 職かんしょく

が進み、保元 3 年には 28 才の若さで正三位に

叙せられ、中納言右衛門督うえもんのかみ

にまで昇のぼ

った。 それにも 拘かかわ

らず、彼はなお高位こうい

高官こうかん

に望のぞ

みをかけていたが、

ついに上皇にお願いして右近衛うこんえの

大 将 たいしょう

になろうとしました。

上皇はその願ねが

いをお聴き

き届とど

けになるおつもりでしたが、ある時、信西 しんぜい

にご相談なさると、さらでさえ

信頼のぶより

のわがままを苦々にがにが

しく思っていた信西 しんぜい

は、「信頼のぶより

などが大将になろうものなら、大将には誰でもなれ

ると思わせるようになりましょう。 以も

っての外ほか

の事でございます」といって、固かた

くお諌いさ

め申したので、

信頼のぶより

の任にん

官かん

はお止や

めになりました。

信頼のぶより

と義 よし

朝とも

との結託けったく

この時から信頼のぶより

は一層いっそう

深ふか

く信西 しんぜい

を憎にく

んで、いつかはこの怨うら

みを報むく

いてくれようと 企くわだ

てた。 既すで

にそ

のころは、上皇の近臣の中にも、又、天皇のご臣下に中にも、信西 しんぜい

が余りにも勝手に権 力けんりょく

を揮ふる

っている

のを 快こころよ

く思おも

わない者が多かったので、信頼のぶより

は彼らを次第に身方に入れて、密ひそ

かに 謀はかりごと

を進めていた。

けれども、信西 しんぜい

には清盛という有力な武士の親類しんるい

があって、それを後うし

ろ盾だて

にしているから、こちらも、そ

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第 8話 平治の乱

3

れに対抗たいこう

するだけの武士を身方みかた

にする必要がある。

清盛に対する武士は義 よし

朝とも

です。 しかも、義 よし

朝とも

は信西 しんぜい

に対して怨みうらみ

を抱いだ

いているのです。 信頼のぶより

一味の者が第一に彼に眼め

を着つ

けたのは不思議ふ し ぎ

ではない。 義 よし

朝とも

は信頼のぶより

から信西 しんぜい

排はい

斥せき

の 企くわだ

てを告つ

げられる

と、彼もまた密ひそ

かに待ま

ち設もう

けていたことであるので、喜んでその身方に加わった。

信頼のぶより

、義 よし

朝とも

らの挙兵きょへい

こうして彼らが時機じ き

の来るのを待っていると、二條にじょう

天皇の平治元年 12 月 4 日、平清盛は子の重盛しげもり

をつれて紀州きしゅう

の熊野くまの

に参詣さんけい

に出かけた。 機会きかい

はこの時と、信頼のぶより

、義 よし

朝とも

らは急に兵を集めて、12 月 9 日

の夜、不意ふ い

に上皇の御所である三 條さんじょう

殿どの

を囲かこ

んで、信西 しんぜい

を捕と

らえようとした。

ところが、信西 しんぜい

は、その日、早くも形勢けいせい

の不穏ふおん

なのを感づいて、御所を逃げてしまっていたが、信頼のぶより

義 よし

朝とも

らはもとよりそれを知し

る筈はず

がなかったので、先づ上皇をお車に乗せ 奉たてまつ

って、皇居の一ひと

間ま

にお遷うつ

し申

してから三 條さんじょう

殿どの

に火を放はな

って乱らん

入にゅう

し、門々もんもん

を固めて信西 しんぜい

を探し求めた。 けれども、いつも御所にい

る筈はず

の信西 しんぜい

は勿論もちろん

、その妻の紀伊きいの

二位に い

も、俊とし

憲のり

、貞さだ

憲のり

らの子まで 1 人も手に入い

らなかったので、信頼のぶより

別に兵をやって信西 しんぜい

の 邸やしき

をも焼や

き払はら

わせた。

のみならず、信頼のぶより

は不心得者ふこころえもの

にも上皇及およ

び天皇を別々に皇居の一間ひとま

に押おし

込こ

め 奉たてまつ

って、自由じゆう

には出入で い

りも出来ないようにした。 目め

ざす敵てき

は信西 しんぜい

1人であったのに、何という彼らの凶 暴きょうぼう

であったろう。 上

皇の御所に押寄おしよ

せて、これを焼き払った上に、なおこの無礼ぶれい

をさえしたのです。 考えの足た

りかった為ため

はいえ、暴 逆ぎゃく

の罪つみ

はついに 免まぬが

れることが出来ません。

しかも、信頼のぶより

はその夜から内裏に在あ

って、上皇と天皇とを擁よう

してほしいままに政せい

権けん

を握にぎ

り、自分はか

ねて望みの大臣だいじん

大将となり、義 よし

朝とも

を従じゅ

四位しいの

下げ

播磨はりまの

守かみ

に任にん

じ、その子の頼より

朝とも

を従じゅ

五位ごいの

下右げ う

兵 衛ひょうえの

佐すけ

に任じ、

その他の一味の者にもそれぞれ官位かんい

を授さづ

けて、独ひと

りで得意とくい

になっていました。

信西 しんぜい

の死

さて、信西 しんぜい

は四人の家来をつれて大和の田原たはら

という処ところ

まで逃げて行ったが、そこで京都の御所の様子

と、既すで

に追お

っ手て

が隈くま

なく彼を捜索そうさく

している事を聞くと、迚とて

も逃げおおせるような気がしなかったので、4

人の者に命じて地じ

面めん

に穴あな

を深ふか

く掘ほ

らせ、四方に板を立て並なら

べた中に入って、僅わづ

かに大きな竹の節ふし

を抜ぬ

いた

のを口に当あ

てて息いき

をしながら、その息の通かよ

うところの外は、 悉ことごと

く厚く土をかぶせさせてその下に隠かく

れて

いた。

が、それさえも遂つい

にわかって、追手おって

の者が向ったので、信西 しんぜい

は穴の中で人声ひとごえ

を聞き

きつけると、今はこ

れまでと覚悟かくご

したのであろう、掘り出して見ると、まだ息は通かよ

っていたが、胸 骨きょうこつ

の上に刀を突き刺して自殺じさつ

していた。 追手の者はその首を斬って京都に帰り、西の獄門ごくもん

の前に晒さら

した。 世間の人はこれを見て、

保元ほうげん

の乱に、絶た

えて久ひさ

しい死し

刑けい

を無む

理り

に執と

り 行おこな

って、義 よし

朝とも

に親を斬らせた報むく

いである、といって喜んだ

ということです。

軍いくさ

の 評 定ひょうじょう

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第 8話 平治の乱

4

第一に目指め ざ

した信西 しんぜい

は既すで

に殺ころ

した。 残る敵は清盛である、 いかにしてこれを討う

ち取と

るべきか?

この軍議ぐんぎ

のあった時に、義 よし

朝とも

の長子ちょうし

の義よし

平ひら

は、「わたしに兵を下さい。 直ぐに阿倍野あ べ の

-- 今の大阪市の

南方 – へ駆け向って、清盛らが帰って来るのを待ちうけて討ち取りましょう」といったが、信頼のぶより

は、「何

も安倍野まで出かけて行って、馬の足を疲つか

らすことはない。 都に帰って来てから討う

てば沢たく

山さん

だ」といっ

て義よし

平ひら

の言葉を用いなかった。

-- 義よし

平ひら

-- 朝とも

長なが

-- 頼より

朝とも

-- 希まれ

義よし

源みなもとの

為義ためよし

--- 義よし

朝とも

----- 範頼のりより

--義よし

賢かた

-- 全成ぜんせい

(今いま

若わか

-- 義ぎ

円えん

(乙おと

若わか

-- 義経よしつね

(牛うし

若わか

悪源あくげん

太た

義よし

平ひら

義よし

平ひら

はこの時 19才の若者でしたが、中々の勇士で、計 略けいりゃく

にも長た

けていた。 15 才の時に武蔵むさし

の大蔵おおくら

というところで、叔父お ぢ

の義よし

賢かた

と戦ってこれを殺したので、世間の人からは悪源あくげん

太た

と呼ばれていたが、彼は却かえ

ってこれを得意とくい

として、 自みずか

ら鎌倉の悪源あくげん

太た

義よし

平ひら

と名告な の

っていた。 今度、父の義よし

朝とも

が京都に兵へい

を挙あ

げる

と聞くと、取るものも取りあえず、大急ぎで馬を飛ばして、鎌倉から馳せ上って来たのでした。

既にたびたび合戦もして、一度も負けたことのない勇士だったし、第一、戦争に就つ

いては、武士の意見いけん

こそを採用さいよう

すべきであったのに、ほしいままに押おし

成な

った俄にわ

か大将の信頼のぶより

は、あっぱれ自分に勝つ見込み こ

みで

もあるかの如ごと

く、義よし

平ひら

の言葉を抑おさ

えて、これを用もち

いなかったのです。 ちょうど保元の乱に、頼長よりなが

が為朝ためとも

の 謀はかりごと

を用いなかったのとよく似に

ています。

清盛らの帰京

さて、都にそういう大事件が起こったとも知らずに、清盛の一行は熊野を指さ

して紀州の田辺たなべ

まで行っ

た時に、十日の明あ

け方がた

に京都の平家の 邸やしき

から立てた早馬はやうま

の使つか

いに追お

い付つ

かれた。 何事かと驚いていて

聞くと、九日の夜にこれこれですといって、三條殿の焼き討ちから信西 しんぜい

の邸を焼き払った事を述べた。 こ

れは信頼のぶより

と義 よし

朝とも

とが相談して、平家を滅ほろ

ぼすための企くわだ

てだという専もっぱ

らの噂うわさ

であるというと、清盛は呆あき

て、「どうしようか?」と迷った。 子の重盛しげもり

は、「君きみ

が逆 臣ぎゃくしん

のために悩なや

まされ給たま

うに、どうして武臣ぶしん

してお救すく

い申もう

さずにおられましょう」と父を諌いさ

めて、急いそ

いで都に引き返すことにした。

清盛、天皇を自じ

邸てい

に迎むか

え 奉たてまつ

清盛らが都に着いたのは 12 月 17 日の事でしたが、この 7日ばかりの間に、信頼のぶより

は内裏に在あ

って、散々さんざん

にわがままの限りを尽つ

くしたのみならず、全く無能むのう

な政治家であることも暴露ばくろ

したので、忽たちま

ち一いち

味み

の者か

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第 8話 平治の乱

5

ら愛想あいそ

をつかされ、彼に背そむ

いて清盛に内通ないつう

する者が続々ぞくぞく

と出た。 清盛はその者らと 心こころ

を合あ

わせて、12

月 25 日の夜、密ひそ

かに天皇を御所の一間ひとま

から出いだ

し奉って六波ろくは

羅ら

の自分の 邸やしき

にお迎むか

え申もう

した。 この時、上

皇も密ひそ

かに御所を抜け出でられて、仁和寺に ん な じ

にお入はい

りになったが、誰だれ

一人として知し

る者もなかった。

日本一の大間抜まぬけ

け!

信頼のぶより

がそれを知ったのは翌朝でした。 彼はその夜も酒さけ

に酔よ

って寝ね

ていたのだが、ほのぼの明あ

けに人

からこれを告つ

げ知し

らされても、容易ようい

には信じないで、押おし

込こ

め 奉たてまつ

った御座所ざしょ

を一々見てまわってから、始はじ

て呆あき

れて青くなったといわれている。 それほどまでにも、彼はとんまな男だったのです。

ですから、一旦、天皇が六波羅へおいでになったと知れると、廷臣ていしん

らは我もわれもと 争あらそ

って六波羅へ

車くるま

を向けて、主 上しゅじょう

のおわしまさぬ内裏だいり

に残ったものは、信頼のぶより

の子や兄弟の外には幾人いくにん

もいなかった。 彼

らは、とんと虻あぶ

が目め

を抜ぬ

かれたような形でぼんやりしていた。 義よし

朝とも

はこの有様ありさま

を見ると、信頼のぶより

を「日本

一の大間抜ま ぬ

け!」と罵倒ばとう

したが、信頼のぶより

は一言の返事も出来なかったといわれています。

さて、皇居は今は六波羅に遷うつ

った。

信頼のぶより

、義よし

朝とも

を討てという 勅ちょく

が清きよ

盛もり

に下ると、彼は 謹つつし

んでお受けして、嫡子ちゃくし

の重盛しげもり

、弟の頼より

盛もり

、教のり

盛もり

らを大将として内裏だいり

を攻めさせた。 清きよ

盛もり

は、主上が彼の邸においでであるから、ご守護しゅご

の為にとて留とど

ったのです。

大将軍の重盛しげもり

は、いざ出 陣しゅつじん

という時に兵を集めていった。 「年号ねんごう

は平治へいじ

である。 都は平安へいあん

城じょう

ある。 われらは平氏であるから、三つの事がよく合っている。 敵を平たい

らげることに何なん

の 疑うたが

いがあろ

う!」と。 即すなわ

ち 3,000 余騎よ き

を三手に分けて、用よう

明めい

、待たい

賢けん

、郁いく

芳ほう

の三門に押寄おしよ

せた。

大臆 病おくびょう

人信頼のぶより

一方、信頼のぶより

、義 よし

朝とも

は、今は明らかに朝敵となったのだが、今更どうしようもなかったから、いさぎよ

く平家の軍を迎えて戦おうと待っていた。 信頼のぶより

は美しく甲 冑かっちゅう

を着飾きかざ

って、黄金こがね

作りの太刀た ち

を佩は

き、姿

ばかりはいかにも堂々と勇ましく、あっぱれ大将らしく振舞ふるま

いながら紫宸殿の一間ひとま

に座ざ

を構かま

えていたが、

平家の勇いさ

んで押寄せた 3,000 余騎の鬨とき

の声こえ

がどっと響き渡ると、今まで偉そうに見えた様子は忽ち消えて、

顔 色がんしょく

は草の葉の如く、階段を下お

りるにも膝ひざ

がふるえて下お

りかねた。

漸ようや

く馬に乗ろうと、引き寄せたが、人並ひとな

みすぐれて肥ふと

った大きな男が、大きな 鎧よろい

は着き

ているし、馬

は大きいし、乗りかねてまごまごしているので、侍が 2 人つと寄って、「疾はや

くお乗りなさい」と押上げると、

余りに押しすぎたのか、左手の方に乗の

り越こ

してどうっと落ちた。 急いで引き起こして見ると、顔には砂

が一面について、鼻血はなぢ

が見苦みぐる

しく流れている。 なるほど、これでは信西しんぜい

がいったように、迚とて

も近衛大将

となる資格しかく

はない。 でも信頼のぶより

は、鼻血を拭ふ

いて、やっと馬に掻かき

乗の

せられると待賢門へ向って行ったが、迚とて

も物の役になぞ立ちようには見えなかった。

重盛しげもり

、内裏を囲かこ

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第 8話 平治の乱

6

しかも、そこへ押寄おしよ

せて来たのが敵の大将重盛しげもり

である。 彼は 500 余騎を率いて押寄せ、この門に向

って大 音 声だいおんじょう

に、「この門の大将軍は信頼のぶより

卿きょう

と見るは僻目ひがめ

か、斯か

く申すは桓武天皇の後裔こうえい

、太宰大弐だざいのだいに

清盛

が嫡子ちゃくし

、左さ

衛門えもんの

佐すけ

重盛しげもり

、年取って 23 」と名な

乗の

りを挙あ

げると、信頼のぶより

は返事もせずに、「それ防ふせ

げ、侍 共さむらいども

といって逃げ出した。 大将が逃げ出せば防ふせ

ぐ兵士は 1 人もいない。 互いに先を争って逃げたから、重盛しげもり

はいよいよ勇いさ

んで、大庭の椋むく

の木の下まで攻付せめつ

けた。

郁いく

芳ほう

門を守っていた義 よし

朝とも

がこれを見て、「悪源太は居お

らぬか。 信頼のぶより

という大臆 病おくびょう

人が、待たい

賢けん

門を早はや

破やぶ

られたぞ。 あの敵を追出おいだ

せ」と呼ばわると、義よし

平ひら

は、「 畏かしこ

まりました」と駆か

けて行く。 従う者には

鎌田かまた

兵衛ひょうえ

政家まさいえ

、熊谷くまがい

次郎じろう

直なお

実ざね

、斉藤さいとう

別当べっとう

実さね

盛もり

以下の 16 騎、義よし

平ひら

を加えて 17 騎。 いづれも一いっ

騎き

当とう

千せん

荒あら

武者むしゃ

が 轡くつわ

をならべて馳はせ

向むか

う。

待たい

賢けん

門の戦い

かくして義よし

平ひら

と重盛しげもり

が奮戦ふんせん

した有名な待たい

賢けん

門の戦いが始まった。

義よし

平ひら

は大 音 声だいおんじょう

をあげて、「この手の大将は誰たれ

人びと

ぞ。 名乗れ、聞こう。 斯か

く申もう

すは清和せいわ

天皇九代の

後胤こういん

、左さ

馬まの

頭かみ

義よし

朝とも

が嫡子ちゃくし

、鎌倉の悪源あくげん

太た

義よし

平ひら

という者ぞ。 生年 15 才に、武蔵の大蔵おおくら

の 軍いくさ

に叔父の義よし

賢かた

を伐う

って以い

来らい

、度々の合戦に一度も負けたことのない者だ。 年とし

積つも

って 19才。 見参げんざん

せん」 とて、重盛しげもり

の 500 騎の真中まんなか

に割ってわ っ て

入はい

り、西から東へ追いまくり、北から南へ追いまわし、縦、横、十文字に敵を颯さ

と蹴散け ち

らして、「 葉は

武者むしゃ

共に眼をかけるな。 大将軍を組く

んで討う

て」と命を下すと、大将を組く

ませまいと

防ぐ平家の兵らが、100 騎ばかりで中なか

を隔へだ

てた。

悪源あくげん

太た

をはじめとして 17騎の者共は、重盛しげもり

1人に目をかけて、大庭の椋むく

の木き

を中に立て、左近さこん

の 桜さくら

右近うこん

の 橘たちばな

を 7,8 度まで追お

い回まわ

して組もう組もうと攻めつけた。 この 17騎に駆か

り立た

てられて、迚とて

も叶かな

ぬと思ったのか、平家の 500 余騎はさっと門の外に引き退いたが、さすがに重盛しげもり

は残念ざんねん

に思ったと見え、

馬に一息ひといき

継つ

がせたと思うと、更さら

に新あら

手て

の 500 余騎よ き

を率ひき

いて、またもや大庭の椋むく

の木き

まで攻め寄せた。

義よし

平ひら

は駆け向って、見回みまわ

して、「兵は皆新手あらて

であるが、大将は元の大将の重盛しげもり

だぞ。 今度こそは取と

逃に

がすな」と命を下すと、勇みいさみ

に勇いさ

んだ 17騎が 我わ

れ先さき

にと進んで行く。 平家の兵らは今度も百余騎が中なか

に隔へだ

てていたが、颯さ

っと蹴け

散ち

らせられて、路みち

を開ひら

いた。 義よし

平ひら

は弓をば小脇こわき

に掻か

い挟はさ

み、鐙あぶみ

を踏ふ

ん張ば

り、

突つ

っ立た

ちあがり、左右の手を挙あ

げ、「幸いにわれは源氏の嫡子ちゃくし

であり、貴殿きでん

は平家の嫡子である。 よい敵

だ。寄よ

れや、組く

もう」といいながら、先の如く椋むく

の木き

の下を五六度まで追い回したが、重盛しげもり

は迚とて

も組んでく ん で

叶かな

わないと思ったのか、またもや颯さ

っと門の外へ引ひ

き 退しりぞ

いた。

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第 8話 平治の乱

7

京都 平治の乱 待たい

賢けん

門の戦い 平重盛しげもり

(左) と 源悪源あくげん

太た

義よし

平ひら

(右)

義よし

平ひら

は 2 度までも敵を追お

いまくり、弓ゆん

杖づえ

を突つ

いて 暫しばら

く馬うま

の息いき

を継つ

がせていると、義よし

朝とも

はこれを見て、

家来の一人を以も

って、「 汝なんじ

がいい加か

減げん

に防ふせ

げばこそたびたび敵が駆か

け入い

るのだ。あれを早く追い出せ」と

いわせてやった。 「 畏かしこ

まりました。 進めや者共」という義よし

平ひら

の命の下に、相あい

も変かわ

らぬ 17 騎が、どっ

と門の外に討って出て、100 余騎の敵の中に 面おもて

も振ふ

らずに割って入ると、すでに逃げ腰になった平家の兵

は一ひと

支ささ

えもせずに、都の大通りを六波羅に向って、とっとと逃げました。

平家の計 略けいりゃく

しかし、これは平家の計 略けいりゃく

の一つであったのです。 というのは、この時の内裏は、その前年に新し

く出来上がったばかりなので、若し火事にでも遭ったら大変だと思ったのと、いつまでも敵兵の信頼のぶより

や義よし

朝とも

に内裏を占領させておいてはならないのとで、わざと逃げて、彼らを内裏からおびき出して、そのあとに

身方を入れ替えようとしたのです。 それとも知らずに、勝ちに乗った義よし

朝とも

は逃げる平家を追っかけて、義よし

平ひら

と共に六波羅の邸に迫って行った。 信頼のぶより

もそのあとからおづおづと続いて出たが、彼は六波羅とは反

対方向に向ってこそこそと逃げた。

源氏の軍は平家の邸に押し寄せると、どっと鬨とき

の声こえ

を挙あ

げる。 その勢いの盛んなのに清盛は 驚おどろ

いて、

あわてて 鎧よろい

を着き

たが、 冑かぶと

をあべこべに被かぶ

ったので、 侍 共さむらいども

が「 冑かぶと

がさかさまです」というと、恐おそ

れた

ように見られたと思ったので、清盛は、「主 上しゅじょう

がこちらにおいでであるから、敵に向えば、主上にうしろ

をお見せ申すのが失礼なので、わざとさかさまに被ったのだ」といったといいます。

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第 8話 平治の乱

8

ところが、この時にはもう天皇が六波羅においでの事が一般の武士にも分かったので、今まで義よし

朝とも

身方みかた

であった同じ源氏の頼政よりまさ

、光みつ

保やす

、光基みつもと

というような人々まで、義よし

朝とも

と共に 朝ちょう

敵てき

になるのを嫌きら

って、

六波羅の攻撃こうげき

には加くわ

わろうとしなかった。 そのために、義よし

平ひら

らが非常に奮戦ふんせん

したにも 拘かかわ

らず、源氏は

小勢こぜい

で、朝からの軍で疲つか

れているのに、平家は新あら

手て

を入い

れ替か

え、入れ替えて戦ったから、ついに源氏はさ

んざんにうち破やぶ

られた。

しかも、内裏だいり

は既すで

に平家の一隊いったい

のために占 領せんりょう

されている。 源氏は後へも先へも進みも引きもなら

なかった。 義よし

朝とも

はもはやこれまでと覚かく

悟ご

を決き

めて、討う

ち死じ

をしようとしたが、鎌田政家らが達たっ

て諌いさ

めて、

一先ひとま

づ東国に下くだ

って再さい

挙きょ

をはかることにした。

信頼のぶより

の醜 態しゅうたい

義よし

朝とも

が義よし

平ひら

、 頼より

朝とも

以下い か

を従したが

えて、京都を立ち去り、北に近おう

江み

路ぢ

を指さ

して八や

瀬せ

にさしかかると、うし

ろから呼よ

ぶ者がある。 見ると信頼のぶより

だ。 早くから逃げたのだから、もう疾と

うに遠とお

くに落お

ち延のび

たことと思

っていたのに、どこかに隠かく

れていたと見えて、今義よし

朝とも

らが通るのを見て、一緒に東国に連れて行ってくれ

るようにいうのです。 義よし

朝とも

は余りの憎にく

さに腹を立てて、信頼のぶより

の卑ひ

怯きょう

を 罵ののし

り、持も

っていた鞭むち

でその左の

頬ほお

をぴしりと打った。 信頼のぶより

は一言の返事もせずに、おどおどしながら、頻りしきり

に鞭むち

の痕あと

を撫な

でていたが、

やがてすごすごと引き返して、仁和寺に ん な じ

においでの後白河ごしらかわ

上皇にお縋すが

り申して助けていただこうとした。

けれども、彼は謀反むほん

の発頭人はっとうにん

であったのだから、折角せっかく

、上皇の口添くちぞえ

もあったけれども、清盛は赦ゆる

そう

としなかった。 ついに死罪しざい

を宣告せんこく

されて、その日のうちに六条河原で斬られたが、その斬られる時にも、

「重盛しげもり

は慈じ

悲ひ

深ぶか

い人だと聞いているのに、どうして信頼のぶより

を助けてくれないのか」と身み

を悶もだ

えて泣な

いたり喚わめ

いたりして、最後まで 醜しゅう

態たい

の限かぎ

りを尽つ

くしたということです。

自分に勇気も力もなくて、人に頼たよ

って事をしようとする者の末路まつろ

は大抵たいてい

こういうような事になるもの

だが、それにしても、あれほどの大事だいじ

をたくらみながら、何という意気地い く ぢ

のない臆 病 者おくびょうもの

であったのだろう。

さて義よし

朝とも

は、大たい

勢せい

一いっ

緒しょ

で落お

ち延の

びるのに都合つごう

がよくないからとて、途々みちみち

、家来けらい

共ども

に 暇いとま

を取と

らせて、

美濃の国に入った。 頼より

朝とも

は途中でおくれ、朝とも

長なが

は手傷のためについに倒れたので、ここで義よし

平ひら

をば兵を

集めに飛騨ひ だ

の国に遣つか

わして、自分は鎌田かまた

政家まさいえ

と金こん

王おう

丸まる

とを連れて尾張おわり

に向かい、政家まさいえ

の妻の父である長おさ

田だ

忠ただ

致むね

をたよって、知多半島の野間の ま

というところに着いた。 時は平治へいぢ

元年 12月 29日の事です。

義よし

朝とも

の最後さいご

忠ただ

致むね

は上うわ

べは厚あつ

く義よし

朝とも

をもてなして、めでたく新年しんねん

を迎むか

えさせたが、密ひそ

かに子の景かげ

致むね

と相談して、義よし

朝とも

を討ち取り、平家の恩 賞おんしょう

にあづかろうと考えた。 が、相手は小勢であっても、名将の事ではあり、家

来共々も中々の勇士であるから、普通では迚とて

も討う

てない。 で、正月 3 日の夕方、義よし

朝とも

に風呂ふ ろ

をすすめ、

彼が 裸はだか

でいるのに 乗じょう

じて、かねて命じておいた 3人の壮そう

士し

をして刺さ

し殺ころ

させた。

その時、金こん

王おう

丸まる

は刀を持って湯殿ゆどの

の番ばん

をしていたのだが、義よし

朝とも

が湯から上がる時になっても浴衣ゆかた

を持

ってくる者がなかったので、自分でそれを取りに行った隙すき

を狙ねら

って、隠かく

れている壮士らが飛と

び込こ

んだのだ

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第 8話 平治の乱

9

った。 金こん

王おう

丸まる

は走はし

り帰かえ

ってこれをみると、憎にく

い奴やっ

ぱら、一人でも除あま

すものかと、湯殿の口で 3人を斬り

伏せた。

鎌田かまた

政家まさいえ

は舅の忠ただ

致むね

に強し

いられて酒を飲んで

いたが、義よし

朝とも

が討たれたと聞いて驚いて飛び立つと

ころを、うしろから景かげ

致むね

に殺された。 義よし

朝とも

も政家まさいえ

も年は 38才でした。

保元ほうげん

の乱後の義よし

朝とも

が信西しんぜい

を怨うら

み、清盛を敵とす

る気になったのは 尤もっと

もだといえるが、信頼のぶより

のよう

な、芸げい

も能のう

もない大間抜けと事を一緒いっしょ

にして、つい

に謀反人むほんにん

と呼ばれたのは確かに彼一代の失策しっさく

であ

りました。

知多 野間の大御堂(北境内けいだい

に義よし

朝とも

の墓がある)

それにしても、信じて頼りにして来た家来のために、無む

慙ざん

にも騙だま

し討う

ちにされようなどと誰が思った

でしょう。

忠ただ

致むね

はもとから源氏の家来でした上に、政家まさいえ

の 舅しゅうと

でもあったので、彼らが安心して身を寄せたのに

不思議はなかったのです。 しかし 諺ことわざ

にも、因果いんが

はめぐる といわれます。 保元の乱の時に、 勅ちょく

令れい

重おも

く、どうしても父の為義ためよし

を斬らなければならない事となると、義よし

朝とも

は政家まさいえ

に命じてこれを殺ころ

させたので

した。 その不幸ふこう

の罪つみ

と不忠ふちゅう

の罪とが、今、ここに報むく

いて来き

たのではなかったか? 父の 命いのち

を絶った者

と主君しゅくん

の首くび

に 刃やいば

を当あ

てた者との運命うんめい

がどうなるかということを、後の世の見せしめにと、天てん

が人の手を藉か

りて示したのかも知れないのであります。

金こん

王おう

丸まる

さて、金こん

王おう

丸まる

は、主人の仇あだ

を討ち取ろうと湯ゆ

殿どの

から駆か

け戻もど

って、美濃から義よし

朝とも

の一行を送って来た玄光げんこう

という強い法師ほうし

と共に、 面おもて

も振ふ

らずに斬き

ってまわって、忠ただ

致むね

親子の隠かく

れている納なん

戸ど

の口まで行ったが、

そこは特別に壁かべ

が厚あつ

く、戸締りと じ ま り

が厳 重げんじゅう

であったために、ついに中には押入おしい

ることが出来なかった。

二人はよんどころなく 厩うまや

に行って、馬を引き出して是に打ち乗り、玄光げんこう

は故郷に 赴おもむ

き、金こん

王おう

丸まる

は都

に駆け上のぼ

って、義よし

朝とも

の妻の常盤ときわ

に事こと

の次第しだい

を注 進ちゅうしん

して後のち

、自分はある寺に入って出家し、諸国しょこく

を歴へ

廻めぐ

て義よし

朝とも

の後世ご せ

を 弔とむら

った。

この時、政家まさいえ

の妻は夫の討う

たれたことを聞くと、驚いてその場ば

に行って、人ひと

目め

も 憚はばか

らずに泣な

き崩くず

ていたが、自分は女の身ではあるけれども、 全まった

く二 心ふたごころ

などないものを、いかに恨うら

めしく思っておいでで

あろう。 若も

し、このままに生き残って、自分も父や兄と同じ心であったと思われては面目めんぼく

ないと、夫の

刀で胸元むなもと

を刺して自殺を遂げた。 親は非道ひどう

を働いても、娘はあっぱれ武士の妻としての道を尽つ

くしたの

です。

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第 8話 平治の乱

10

忠ただ

致むね

父子の末路まつろ

さて忠ただ

致むね

は、娘むすめ

を死し

なしてしまったのは悲かな

しんだが、目め

ざした義よし

朝とも

を討ち取ったのを喜んで、子の景かげ

致むね

と共に義よし

朝とも

と政家まさいえ

の首を持って都に上のぼ

り、大いに恩 賞おんしょう

に預あづ

かるつもりでこれを平家に差さ

し出だ

した。 と

ころが、重盛しげもり

はいうに及およ

ばず、さすがの清盛までが、主しゅ

君くん

と婿むこ

とを騙だま

し討う

ちにした彼の所 業しょぎょう

を憎にく

んだた

めに、はかばかしい恩賞を下さらないばかりでなく、ぐづぐづしていると、死刑しけい

にも処しょ

しかねないような 噂うわさ

が立た

ったので、二人はあわてて尾張に逃げ下くだ

った。

その後は世間の人々からも憎にく

まれて、小さくなって暮く

らしていたが、20 余年の後、源氏が平家を討つ

ようになった時に、ついに頼より

朝とも

のために 2 人とも殺された。 不忠ふちゅう

不義ふ ぎ

の当然とうぜん

の報むく

いであります。

さて、義よし

朝とも

は以上の如く情けない最後を遂げたが、長子の悪源あくげん

太た

義よし

平ひら

と頼より

朝とも

はどうなったか?

義よし

平ひら

の最後

義よし

平ひら

は美濃み の

で父と別れてから、その命めい

のままに飛騨ひ だ

の国に 赴おもむ

くと、初めはその身方みかた

につく者が中々

多く、一時は 勢いきお

いが盛さか

んになりかけたが、義よし

朝とも

の討う

たれた事が伝わると、皆ちりぢりに背そむ

いて行って、

ついに自分一人となった。 それで、いっそ自殺しようとまで思ったが、空むな

しく死ぬより、親の敵の清盛父子ふ し

の内うち

を、せめて一人なりとも討って恨うら

みを晴は

らそうと思おも

い返かえ

して都に上り、六波羅の平家の邸の辺へん

に潜ひそ

で様よう

子す

を窺うかが

っていた。

ところが、運うん

悪わる

く平家の知るところとなって、忽たちま

ち三百人の討手うって

に家を囲まれたので、真ま

っ先さき

に進ん

だ兵を 4,5 人斬き

り伏ふ

せると、軒のき

に手て

を懸か

け、ひらりと屋根や ね

に上がって、屋根伝づた

いに逃げた。 そして近江

の国の石いし

山寺やまでら

の辺へん

に隠かく

れていたが、ついにまた捜さが

し出だ

されて囲かこ

まれた。 その時、彼は疲つか

れて眠ねむ

っていた

ので、驚いて飛び起きる拍子ひょうし

に肘ひじ

を射い

られ、 刀かたな

を揮ふる

うことも出来なくなったために、ついに捕らえられ

て六波羅の平家の邸に送られた。

彼はそこで、「義よし

平ひら

ほどの大事の敵をしばらくでも生かしておくのはよくないぞ。 早く斬き

れ」といっ

たきりで、その後は物も言わずにいたが、やがて六 条ろくじょう

河原かわら

に引き出されて斬られることになると、首くび

斬き

役やく

の難波なんば

常房つねふさ

という者に、

「敵とはいえ、義よし

平ひら

ほどの者を白 昼はくちゅう

に河原かわら

で斬るとは何事だ。 保元の乱の時にも、多くの源平の

兵つわもの

が斬られたが、昼は人目ひとめ

にかからぬ西山にしやま

か、東 山ひがしやま

かの片かた

辺ほと

りで斬り、たまたま河原で斬る時には夜

になってからしたものだ。 平家の奴らは、揃そろ

いい

も揃そろ

って情なさ

けを知らない者共である。 去年、熊野の帰

りを討とうというのを、信頼のぶより

という大間抜ま ぬ

けが差さ

し止と

めたばっかりに、今日、この恥はぢ

を見るのが残念ざんねん

だ。

阿倍野あ べ の

で待ち受けて 1 人も残さず討ち取ってしまったものを」

というと、常房つねふさ

が、「何を今更、返かえ

らぬ事をいっていなさる」といったので、義よし

平ひら

は 冷 笑れいしょう

して、「うむ、

よくいった。 いかにも返らぬ過去か こ

の繰言くりごと

だ。 やい、貴様きさま

が義よし

平ひら

の首を討とうというのか。 しっかり

斬れ。 下手へ た

に斬ると、しゃっつらに喰く

い付つ

くぞ」とて、殊こと

更さら

に首を高くのばして斬られた。 時に年は

20才でした。 その武勇ぶゆう

がすぐれて、飽あ

くまでも元気のよかったことは、保元の乱の為朝ためとも

とよく似ていま

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第 8話 平治の乱

11

す。

14才の頼より

朝とも

また、義よし

平ひら

の弟の頼より

朝とも

は、十三才で 軍いくさ

に従ったのだが、東国へ落ちていく途中で父や兄におくれた

上に、雪のために道に迷って、しばらく近江おうみ

の山中の農家に隠かく

れていた。 ところが、2 月の始めに、東

国に 赴おもむ

こうと美濃路を急ぐ道で、ふと出合で あ

った平家の弥や

平へい

兵衛ひょうえ

宗むね

清きよ

という者に捕らえられて、六波羅に

送られた。

清盛は勿論もちろん

これを殺すことにしたが、宗むね

清きよ

の主君しゅくん

の頼より

盛もり

の母で、清盛には継母けいぼ

に当る池いけ

の禅ぜん

尼に

が聞い

て哀あわ

れに思い、是非ぜ ひ

命いのち

を助たす

けるようにと願ってくれた。 これは、先年せんねん

亡な

くなった自分の子の家いえ

盛もり

に、頼より

朝とも

がよく似に

ていると聞いたためと、一つには頼より

朝とも

がせめて自分一人でも生い

き残のこ

って、保元、平治の 2 度の

乱に討たれた一族いちぞく

の後世ご せ

を 弔とむら

いたいといったのを哀あわ

れに思ったためでした。 清盛もこれには非常に

当惑とうわく

したが、父の忠ただ

盛もり

が亡くなった後は、殊こと

に大たい

切せつ

にしていた禅ぜん

尼に

のいう事であるから、ついに、心なら

ずも頼より

朝とも

の 命いのち

を助けて、伊豆の蛭ひる

が島しま

に流すことにした。

韮山 伊豆の蛭ひる

が島しま

この時、頼より

朝とも

は 14 才でしたが、普通ふつう

子供こども

とは違ちが

っていたと見えて、世間せけん

の者は、

「虎とら

を野の

に放はな

ったようなものだ」といって

噂うわさ

し合あ

ったということです。 因ちな

みにいう

が、蛭が島というのは、海の中の島ではなく

て、その頃、狩か

野川のがわ

の流れの中にあった島で

あったというが、今は流れが変わったために、

普通の田地でんち

となっている。 今の韮にら

山やま

の附ふ

近きん

に、その址あと

を示しめ

す記き

念ねん

碑ひ

が草くさ

地ち

の中に建た

っています。

平治の乱は斯こ

うして大体は片付かたづ

いたが、もう一つ 序ついで

に述べておきたい事は、後に義経よしつね

となった牛うし

若わか

事です。

牛うし

若わか

の母の常盤ときわ

牛若の母の常盤ときわ

は、金王丸から夫の悲しい知らせを聞いて後も、しばらくは都に残っていたが、3人の

男の子を抱かか

えているという事が平家にわかって、俄にわ

かにその探索たんさく

が厳きび

しくなったために、ある夜、こっそ

りと京都を抜ぬ

け出だ

し、寒さに手足の凍こお

る中なか

を 8 才になる今いま

若わか

を前に歩ませ、6 才の乙おと

若わか

の手を引き、去年

生まれた 2才の牛うし

若わか

を 懐ふところ

に入れて、大和の伯おじ

父の 処ところ

まで逃に

げ延の

びた。

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第 8話 平治の乱

12

三子を連れて大和やまと

へ遁のが

れる 常 盤と き わ

ところが、都では、彼かれ

らを捜さが

しあぐんだ平家が、常盤ときわ

の老おい

いた母はは

親おや

を捕と

らえて、知し

らぬというのに、

無む

理り

に白はく

状じょう

させようと責せ

め問と

うた。 常磐は大和でこれを伝え聞くと、子が親の為ため

に難儀なんぎ

を受う

けるのなら

ば当然とうぜん

だが、親が子の為に苦くる

しめられるのを見てはいられないと、急いそ

いで 3 人の子供を連つ

れて、泣な

く泣な

都に上り、平家の六波羅の 邸やしき

にまいって、

「子供をつれて片田舎かたいなか

に隠かく

れていたのはもとよりわたくし一人の考えで、母には何の罪つみ

もございません。

どうぞ母をお助けくださいませ。 又、子供の 命いのち

をお助だす

け下さいとは申しません。 けれども、高たか

いも卑いや

しいも、親が子を思う 心こころ

は皆みな

同おな

じでございましょう。 わたくしも子供を 失うしな

いましては、片かた

時とき

も生い

きて

いられるとは思えませんから、先ま

づわたくしを亡な

き者もの

になされて後に、子供らをばどうともなすってくだ

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第 8話 平治の乱

13

さいませ」

と 涙なみだ

を抑おさ

えていうと、6 才の乙若が母の顔を見上み あ

げて、「泣な

かないでよく申もう

し上あ

げて下くだ

され」といったの

で、常磐はいよいよ 涙なみだ

に咽むせ

んだ。 さすがの清盛もこれには 涙なみだ

を 催もよお

し、既すで

に年とし

上うえ

の頼より

朝とも

を助たす

けておく

上うえ

は、兄をば助けて弟を 誅ちゅう

するという訳わけ

にはいかないと、 即すなわ

ち 3 人の子を宥ゆる

すことにした。 但ただ

し、3

人共に出家しゅっけ

させるというので、今若と乙若は間もなく寺に入って坊ぼう

さんになったが、牛若はまだ乳離ちちばな

れも

せぬ幼児おさなご

であったから、しばらくはなお母の許もと

に留とど

めておくことにした。

こうして平治の乱の跡始末あ と し ま つ

が済す

むと、源氏は終つい

に 全まった

く 衰おとろ

え、勢 力せいりょく

のあるのはただ平氏ばかりとな

った。 しかも藤原氏も既すで

に大いに勢力を失ってしまっていたので、 政せい

治じ

上じょう

の権けん

力りょく

までが自し

然ぜん

と実じつ

力りょく

のある平氏の手に落ちて来た。 殊こと

にその頭 領とうりょう

である清盛の威勢いせい

は、まるで朝日あさひ

の昇のぼ

るようでした。

( 第8話 平治の乱 終わり。 次は前頁に戻り、 第9話 平氏の全盛 へ)