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明治初期の体育 39 明治初期の体育 (1) 一生理学的体育観の確立一 まえがき 明治19年4月初代文相森有礼によって帝国大学令につづいて学校 種別の諸法令が公布され(小学校令,中学校令,師範学校令),学校 制度は面目を一一新する・体育についてみると,兵式体操が大きな位置 を占め,兵式・普通の2本立てとなって後の学校体育の原型が作られ たとみなされる.兵式体操は師範教育の中核に据えられ,その訓育的 意義が重要視されることになる・そこではじめて,体操が教育的要件 として取りあげられるのである. 本稿ではその教育的要件が何を意味するかは問わない。それに至る までの過程を,主として普通体操の側から見ていくのがねらいであ る, 1・r学制」時代の体育 まずr学制」の時代の体育の実態からみていくことにする, 明治新政府がとった諸施策のひとつとして近代的な学校制度の確立 と・それによって,近代統一国家としての出発にふさわしい新しい人 材の養成が急がれたことは言うまでもない.明治5年8月のr学制」 は欧米(特に仏・米)に範を求め雄大な構想をもって領布されてい る1)・欧米の学問を教育の内容として全面的に取り入れながら,その 根底には実学主義の理念が横たわっている2)。極めて実際的な教育の 効果がうたわれているわけであるが,こうした考えは,体育を問題に する際にも,それを受け入れる基盤としては好都合であったと言える であろう。なぜなら体育が直接には,’日常的・現実的な身体にかかわ るものだからである.

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  • 明治初期の体育  39

    明治初期の体育 (1)

    一生理学的体育観の確立一

    小 林 一 久

    まえがき

     明治19年4月初代文相森有礼によって帝国大学令につづいて学校

    種別の諸法令が公布され(小学校令,中学校令,師範学校令),学校

    制度は面目を一一新する・体育についてみると,兵式体操が大きな位置

    を占め,兵式・普通の2本立てとなって後の学校体育の原型が作られ

    たとみなされる.兵式体操は師範教育の中核に据えられ,その訓育的

    意義が重要視されることになる・そこではじめて,体操が教育的要件

    として取りあげられるのである.

     本稿ではその教育的要件が何を意味するかは問わない。それに至る

    までの過程を,主として普通体操の側から見ていくのがねらいであ

    る,

    1・r学制」時代の体育

     まずr学制」の時代の体育の実態からみていくことにする,

     明治新政府がとった諸施策のひとつとして近代的な学校制度の確立

    と・それによって,近代統一国家としての出発にふさわしい新しい人

    材の養成が急がれたことは言うまでもない.明治5年8月のr学制」

    は欧米(特に仏・米)に範を求め雄大な構想をもって領布されてい

    る1)・欧米の学問を教育の内容として全面的に取り入れながら,その

    根底には実学主義の理念が横たわっている2)。極めて実際的な教育の

    効果がうたわれているわけであるが,こうした考えは,体育を問題に

    する際にも,それを受け入れる基盤としては好都合であったと言える

    であろう。なぜなら体育が直接には,’日常的・現実的な身体にかかわ

    るものだからである.

  •  40  一橋大学研究年報 自然科学研究10

     「学制」の教科の規定のなかには下等小学(6-9歳)上等小学(10

    -13歳)とも「養生法講義」「体術」が含まれている3).

    (1)初等教育における体操

     r学制」の学校制度史的な最も大きな特色は,小学校6年の就学義

    務を定めたことであろう.第21章でつぎのように言う、「小学校ハ教

    育ノ初級ニシテ人民一般必ス学ハスンハアルヘカラサルモノトス」4)・

    また,「当今着手ノ順序」として第1に「厚クカヲ小学校二可用事」5)

    として学校教育の「初階」としての小学校は極めて重んじられている。

    これを,徴兵制度の制定による国民皆兵主義の実現の方向と結びつく

    なかで,「富国強兵」「殖産興業」の推進力としての人民への期待が寄

    せられていると解すべきであろう.

     ところで小学校の体操を制度史的に見ると,明治5年9月8日,文

    部省布達番外「小学教則」には,「学制」の規定にもかかわらず何も

    ふれられておらず6),同年11月の「小学教則概表」も同様何も述べ

    ていない7).

     はじめてやや具体的な内容が明らかにされるのは明治6年5月19

    日の「改正小学教則」においてである.その教則末尾・伯書にはつぎ

    のように記している.

     r毎級体操ヲ置ク体操ハー日一二時ヲ以テ足レリトス樹中体操法図

    東京師範学校板体操図等ノ書ニテナスヘシ」8)。

     謝中体操法図は明治5年6月,D.Sc五reberの“Arztliche Zimmer-

    Gymnastik”1855.の附図の翻訳として南校より出されたものであ

    る9),その内容は徒手体操が大部分を占め,2,3の手具体操が含まれ

    ている.この体操の依拠する立場はシュレーバーの書名が示すように

    医学的・保健的であり,そういう意味では後に述べる生理学的体育観

    の確立の一助ともなったと思われる10〉。

     また,東京師範学校板体操図はアメリカのメースンの“Manual

    of gymnastic exe「cises,for school a且d{amilies”1871年。の挿絵

    をまとめたものといわれている11).

     なお当時の書物として見落せないものにベルギュ著石橋好一訳の

  • 明治初期の体育  41

    r体操書」がある12).上に並ぺたように図解程度のものに頼っていた

    状況のなかで,ともかく学校向けの指導書が出たことは画期的であっ

    たと言えよう.一部では徐々に,「体操図」から「体操書」への移行

    がみられるようである13).

     その内容を概括すれば,秩序運動,徒手体操,手具体操,跳躍,器

    械運動,教練等であるが,例えばつぎのような目的の記述や方法的配

    慮も加えられている。

     r体操の目的は筋経を伸し其他諸機関をして次第に強くせしめ又こ

    れを柔軟ならしむる為のものにして此目的を達成するは生徒の備ふる。

    力量に応ぜる器械を用いて適宣の運動を行はしむるなり,若し生徒の

    力量と其為すべき業との規合を得せしむることに著意せざるときはそ

    の達せんとする目的と全く相反し且力量を暢発せずして却って体の疲

    労を生ずるに至るぺし」14)・したがって9歳から11歳までの生徒は1

    キログラム以上の「ハルテール」を用いるのは不可としている,

     しかしいずれにしても器械運動に重点を置いた,かなり鍛練的な,

    いわゆるHeavy Gymnasticsであるというべきであろう.

    以上のような限られた手引書に頼らざるを得なかった当時の体操実

    体  操

    幼稚園 庭内ヲ遊歩セシム

    第8級体操図二因テ第1ヨリ4迄ヲ授ク

    第7級 ”  第5ヨリ入迄

    第6級 ”  第9ヨリ12迄

    第5級 ”  第13ヨリ16迄

    第4級 ”  第17ヨリ20迄

    第3級 ”  第21ヨリ24迄

    第2級 ”  第25ヨリ28迄

    第1級 ”  第29ヨリ32迄明治8年r飾磨県下等小学科凡例」より

  • 42  一橋大学研究年報 自然科学研究10

    施の状態につきさらに若干の考察を加えておくことにする.

     文部省第3年報(明治8年)によると,千葉県の小学教則には体操

    が見られるが,東京府,埼玉県,神奈川県では見当らない.前の表の

    ように具体的な内容を示しているのは非常に希な例と思われる15).

     ここに言う体操図は東京師範学校板体操図であろうと思はれる(謝

    中体操法図は1-45まである)。これによってみても当時の体操が如

    何に内容の乏しいものであったか推察できるであろう.

     こうしたなかで一部の先駆的な人々によって体操の改革・発展が見

    通されていたのは注目する必要がある.

     例えば伊沢修二はr将来学術進歩二付須要ノ件」としてr唱歌嬉戯」

    の必要性を述べてつぎのように言う.

     「唱歌嬉戯ヲ興スノ件.(前略)唱歌ハ精神二娯楽ヲ与へ運動ハ支体

    二爽快ヲ与フ此二者ハ教育上井ヒ行レテ偏廃ス可ラサルモノトス而シ

    テ運動二数種アリ方今体操ヲ以テ必行ノモノト定ム然レトモ年歯幼弱

    筋骨軟弱ノ幼生ヲシテ支体ヲ激動セシムルハ其害却テ少カラスト是レ

    有名諸家ノ確説ナリ故二今下等小学ノ教科二嬉戯ヲ設ク……」16)とし

    て具体的に唱歌遊戯3種(「椿」,「胡蝶」,「鼠」)を示している.すで

    に伊沢はフレーベルの影響を受けていたと思われるが,彼の後の音楽

    取調掛,体操伝習所主幹としての活躍を示唆するかの如き興味ある建

    ’言である.

     さらに当時の実状を述ぺたものとして文部大書記官西村茂樹のr第

    二大学区学事通覧」の中の最後の一節をあげておきたい.

     r諸県共二其教育スル所ハ知ヲ第一トシテ徳之二次キ身体ノ教育ニ

    ハ敢テ意ヲ用ヒサル者ノ如シ教員ノ能ク教授二勉強スル者ハ頻リニ生

    徒二暗記暗算等ヲ教へ込ミ生徒ノ脳カノ疲労ハ顧ミス又体操揚ノ如キ

    ハ諸県ノ学校多ク樹木ノ遮蔽ナク生徒等皆炎日ノ下二立テ体操ヲ行フ

    其ノ深ク健康二注意セサル■以テ見ルヘシ」17).

     ここにはr学制」下の主知主義的教育へ反搬する彼の儒者としての

    一面がのぞいていると見るぺきであろうが,ともかく,細々ながらで

    はあっても何等かの形で体操が行なわれていたとは言えるであろう,

  •                    明治初期の体育  43

    (2) 中等・高等教育における体操

     幕末から明治にかけて,海外列強国の軍事的圧力とそれに呼応して

    の軍制改革に関連した兵式体操と,西洋医学に基礎をおく養生、思想の

    二者が我が国の近代体育の源流をなしていることはすでに知られてい

    る。しかしそれらが国民大衆のものとして容易には根づかない原因の

    ひとつに・初等教育の普及をはかろうとするr学制」の趣旨にもかか

    わらず,高等教育の側からの,いわば上からの体操の啓蒙という形が

    とられたであろうことが予想される・そこでまず当時の中等・高等教

    育における体操の実状を知るために制度的な規定を概観することから

    入っていくことにする.

     おそらく「学制」以後最初に体操にふれているのは明治5年8月

    17日,外国教師にて教授する中学校・医学校に関する布達であろう.

    そ二でr躰操奏楽ノニ科ハー週三十時稽占時限ノ外トス」18)とされ,

    予科・下等・上等各級とも体操はその教則中に示されてはいるが,時

    間も内容も明らかでない.

     6年4月28日,文部省布達第57号r学制二編追加」によると19),

    外国諸学校の下等・上等の各級とも体操は教則に定められており,同

    様に,獣医・商業・工業・農業・鉱山・諸芸・理科・医・法各学校と

    も予科教則にはあるが本科には覧外に「伯反訳体操等ヲ附ス」とのみ

    記されている20),

     また,文部省年報に示された教則を見ると,第1年報では,大坂英

    語学校,長崎外国語学校ではいずれも各級とも体操をあげている,第

    2年報の愛知師範学校,愛知英語学校,広島英語学校に,さらに第3

    年報によれば,東京女子師範学校,東京女学校,大坂,新潟,宮城21)

    各師範学校,東京,愛知,大坂,広島,長崎,新潟,宮城各英語学校

    及び東京外国語学校いずれも体操を教則中に示してはいるがこれによ

    ってその内容をうかがうことはできない.ただ東京女子師範学校舎則

    第3条に,r身体ヲ運動スルハ健康ヲ保護スル為メ最モ切要ナルヲ以

    テ体操時間並二放課時間ハ勉メテ身体ノ運動ヲ為スベシ」22)とされで

    いるのは当時にあっては注目に価する.

  •  44  一橋大学研究年報 自然科学研究10

     こうしたなかにあっていち早く体操を行ってきたのは南校(のちの

    第一番中学,開成学校,東京開成学校)である.

     すでに明治5年4月「運動所ヲ置キ生徒二体操ノ技ヲ教ユ」23)とい

    われ,同年5月の改正学則では各級とも(英・仏・独科とも同様)毎

    日30分体操が課されている24)、

     ぞこで行なわれた体操は沼津兵学校の流れをくむ,田辺良輔記述の

    「新兵体術」(明治元年刊)をテキストにした,器械を使った兵式体操

    であったろうと推測されている25)。しかしこのころすでに先に述べた

    謝中体操法図に見られるような養護的な意味での体操の啓蒙がなされ

    ており,実践もされていた.「文部省雑誌」(明治6年3月)に掲載され

    た「東京開成学校生徒養生法」26)にはつぎのように述ぺている。

     「精ヲ励ムニ節限アリ.身ヲ養フニ方制アリ。是レ就学者ノ平生犬

    意ヲ用フベキ事ナリ。別冊生徒養生法ハ,東京開成学校ニテ近来実地

    験効ヲ見ルモノニシテ現今生徒ノ病患二嬰ル者,前日二比スレバ十其

    八ヲ滅ジタリ」として,「生徒養生ノ法」のうち運動についてはつぎ

    のように言う.

     r生徒ノ時ヲ以テ身体ヲ運動スルハ最モ切緊ナルー事ナリ。人ノ食

    物大抵ハ頭脳精神ノ運為二由テ梢耗シ去ルト難ドモ,尚其余分ハ全体

    筋骨ノ運動ヲ侯テ新陳交代スル事ヲ得ルナリ・若シ之ヲ欠バ汚物体中

    二留滞シテ終二禍害ノ基トナル,故二運動ハ唯身体ノ健康ヲ保持スル

    ノミナラズ,又精神ヲ活濃ナラシムルニ必効アリ.蓋精神ハ身体ト相

    待テ均衡ヲナスモノナレバ時々課業ヲ止メ精神ヲ休マシム可シ,伯精

    神ヲ休マシムルハ身体ヲ運動スルニ非ザレバ能ハズ,故二日’々時間ヲ

    定メテ身体ヲ運動セシムルハ最好ノ摂生方ニシテ,運動ノ時限ハ食前

    1時或ハ食後2時ノ時ヲ宜シトス,夏天二水ヲ泳グハ運動中ノ最モ有

    益ノ事ニシテ身ノ為二効ヲ奏スル事亦甚多シ,」

     このような養護的・保健的な考え方が後に体操伝習所を通して一層

    根づよく侵透していくのである.しかし「学制」時代についての以上

    の考察も,学校体育に関係する一面に限定されたものであってこれを

    もってすぺてだと言うわけでは勿論ない.

  • 明治初期の体育  45

     陸軍では明治7年5且仏人デ昌ク・を招聰して体操の指導を本格

    化し,海軍では雇教師として英人34名を聰し(明治6年7月27日)

    翌年早々「ビリヤード」「クリケットボール」あるいは「ボーリング

    ァレー」等の遊具の設置をはかり,さらに同年3月我が国で最初の運

    動会を実施している27)といった事実を無視することはできないからで

    ある.

     ただここでは,外人教師の指導が得られた所を別にすれぱ,極く限

    られた翻訳書を手掛りに体操が為されたことと,さらにつけ加えれば,

    高等教育から初等教育へという方向で,一部の高等教育機関が翻訳・

    紹介の労をとり,完成品の輸入を計ったという点を見ておけば充分で

    あろう.

    1) 頒布当初全篇109章,その後訂正,追加されてさらに膨大なものに

     なる(全213章),その構想が現実から遊離して,学区制の制定・就

     学義務の規定学費の人民負担等多くの問題を孕むわけであるが,体育

     という1教科を通してみた揚合にも同様のことが言えるであろう.

    2) 「学制」頒布に際しての太政官の被仰出書の冒頭でつぎのように雷

     う.

      r人々自ら其身を立て其産を治め其業を昌にして以て其生を遂るゆ

     えんのものは他なし身を脩め智を開き才芸を長するによるなり而て其

     身を脩め智を開き才芸を長ずるは学にあらざれば能はず是れ学校の設

     あるゆえんにして日用常行言語書算を初め士官農商百工技芸及ぴ法律

     政治天文医療等に至る迄凡人の営むところの事学あらざるはなし人能

     く其才のあるところに応じ勉励して之に従事ししかして後初めて生を

     治め産を興し業を昌にするを得ぺしされば学問は身を立るの財本とも

     いふべきものにして人たるもの誰か学ばずして可ならんや(以下省 略)」(訓みがなを略す)

      これには福沢諭吉の影響が大きいと思われる,被仰出書はいわぱ官

     板r学問のす㌧め」(明治5年2月初版)ともいうぺきものである.

     土屋忠雄,「明治前期教育政策史の研究」,84頁参照.

    3) 教育史編纂会編,「明治以降教育制度発達史」(以下『発達史』と略

     記する)第1巻,283-288頁・なお,中学,大学の教科には記され

     ていない。

    4) 同上書,282頁.

  • 46  一橋大学研究年報 自然科学研究10

    5) 同上書,341頁,

    6) 同上書,402-416頁,

      下等小学第5-3級までr養生ロ授」各1週2時とされ(つぎの『小

     学教則概表』も同じ)教科書として杉田玄端著r健全学」6冊,があ

     げられている.なお上等小学第1級「生理」1週1時が含まれてい

     る.

    7) 同上書・418-419頁・

    8) 同上書,438頁・

    9) 今村嘉雄・「日本体育史」,71頁参照・なお,今村氏によればシュ

     レーバーの書はDiQ Lewis(1823-1886年,1861年ボストンにThe

     No㎜al Institute of Physical Educatlonを設立,当時の米国では

     代表的な体操の指導者)の“New Gymnastics”にも引用されてお

     り,後に体操伝習所へ招聰され来日するリーランドとも関係が深いと

     推測されている。また,明治20年8月,医学士保利連氏によって

      r衛生室内運動」として翻訳出版されている・

    10) 竹之下休蔵,r体育五十年」所収,「柑中体操法図」覧外説明にはつ

     ぎのように述ぺられている。「凡学者ハ思ヲ精緻二尽スヲ以テ務トシ

     凝然闘床轍モスレハ身体ノ運動ヲ闘ク是ヲ以テ縦ヒ功等脩二蹴ル者ア

     ルモ或ハ痢疾二係リ往々天下無用ノ人トナル者ナキニ非ス亦欄然ナラ

     スヤ況ヤ其功末タ半ナラスシテ疾ヲ致ス者二於テヲヤ夫身健ナラサレ

     ハ其業勤ムヘカラス業勤メサレハ其功何ヲ以テカ成ラン是体操ノ己ム

     ヘカラサノレ所以ナリ(以下省略)」、要するに医学的な立揚からの体育

     啓蒙論と言うぺきであろう・

    11) 今村嘉雄,「ジョージ・アダムス・リーランド」,「体育の科学」第

     11巻,第8号所収,415頁参照・

    12) 文部省刊,全6巻,第1巻一第4巻小学校の部明治7年7月,第5

     巻中学校の部及ぴ第6巻附録明治8年1月,r体操書」凡例にはr原

     本は仏国の文部省において体操の職なるベルギュ氏の著せる所にして

     其刊行は彼の紀元1872年に係れり」とあるからわずか2年後には翻

     訳出版されたわけである・当時切実に指導書を求めていたことが知ら

     れる.

    13)例えぱ東京師範学校附属小学校の体操・能勢修一,r明治体育史の

     研究」28-29頁参照・また,リーランドが体操伝習所主幹伊沢修二

     に提出した意見書(坪井玄道訳)ではつぎのよろに述ぺられている

      r頃日余ハ諸役員ノ恩恵ニヨリテ諸学校ヲ歴観スルコトヲ得タリ敬テ

     蝕二多謝ス就中陸軍体操所ノ方法二至リテハ余ノ最モ感服スル所ナリ

     コレ兵事本分ノ人物二適当ナル多力体操術ト云フベシ他校二至リテモ

  • 明治初期の体育  47

      亦男女ノ別ナク同ジク之ト同一方法ヲ用ヒタルガ如シ然レドモ此方法

      ハ貴下ノ嘗テ目識セラレタル如ク静和ナル知カヲ要スル業二従裏セン

      トスル諸人及ピ年少ノ女子等ノ為ニハ全ク不適当ノモノナリトス」.

      開国百年記念文化事業会編纂,r,日米文化交渉史」第3巻,宗教・教

     育編,392頁,これは明治11年10月以降のものであると思われる。

      この当時の東京では一般の学校でr体操書」が多く用いられていたよ

      うである・ここにも述ぺられているようにリーランドはr多力体操」

      はとらない。これについては次章以下でのぺる.

     長伊沢修二が文部省へ建言したものである。

      文部省第4年報,第二大学区巡視功程・43頁.

      前掲r発達史」第1巻502頁。  同上書,312-332頁.

      明治6年7月24日発行のr文部省雑誌」のr理学校教則」「法学校

     教則」ではいずれも予科・本科とも毎日午前9時30分より10時ま

     で体操を行うようになっている・「明治文化全集」第18巻,雑誌篇所

     収.

    21) 文部省第3年報,宮城師範学校年報にはr体操器機体操運動」と記

      されている.527頁.

      文部省第3年報,東京女子師範学校年報,504頁.

      文部省第1年報,153頁.

      前掲,『発達史』,202-217頁.

      前掲,r明治体育史の研究」,20」21頁参照.

      前掲,「明治文化全集」所収,

      「海軍兵学校沿革」巻之一,164-165頁及ぴ167-169頁.

    14) 石橋好一訳,「体操書」巻之三,注釈23-24頁,

    15) 文部省第3年報,督学局年報,73-74頁.

    16) 文部省第2年報。愛知師範学校年報,363-364頁.愛知師範学校

    17)

    18)

    19)

    20)

    22)

    23)

    24)

    25)

    36)

    27)

    2.アメリカ体育への接近

     体操伝習所が設立されたのは明治11年10月24日である1).こ

    の時期は自由教育令と呼ばれる教育令(明治12年9月29日)の発布

    が準備されつつある時でもあった.その中心になったのは言うまでも

    なく学監マレー(David Murray)と文部大輔田中不二麻呂である.

    体操伝習所はいわば,教育令が準備される過程での日米教育交渉の落

    し子ともいうべきものであった.

  •  48  一一橋大学研究年報 自然科学研究10

     田中不二麻呂が自ら語ると二ろによるとその事情はつぎのようであ

    る.

     r初め政府は学制を発布し,学科を定むるに当り,体操をも等しく

    其中に加へしが,斯る技術的のものは単に書籍上の研究に依りて之を

    修知し得らるべきものにあらず,殆と闘科の儘に打過ぎ,有名無実の

    もめたりしが,先づ体操取調所なるものを設け,科目の攻究に従事し

    て其業を開始せり.」2)勿論その準備を進めたのは田中自身であった。

    彼は明治9年渡米の際の様子をつぎのように言う。

     rアームスト大学附属体操学校の整備せるを目撃し,幸に大学長は

    会識の人なれば,是と商議する所あり,幸に該校出身のドクトル・リ

    ーランド氏を聰することとなれり」3)と。

     また,彼はその渡米の際すでに任務のひとつとして体操教師招聰の

    件を含んでおり,アマースト大学出身でかつて札幌農学校に来ていた

    クラーク(W,S.Clark)に相談した結果,クラークの同窓で母校に

    勤務する体育の専門家であるヒチコック,DL E,Hitchcock(1828-

    1911年)に紹介を依頼したのだともいわれている4).

     当時の米国にあってヒチコックがダイオ・ルイスと並ぶ著名な体育

    の指導者であったことは周知のところである、それではアマースト大

    学の体育の実状や,ヒチコックの考える体育論はどのようなものであ

    ったのか,明治11年10月r教育雑誌」に翻訳紹介されている彼の

    健康論演説によって見ていくことにする5),

     アマースト大学では1859年,時の学頭ステールニス氏の提唱によ

    り,ドクトル・ナサン・アーレン氏の努力によって体育館が設立され,

    同時に育体保生局が作られた.最初の1年余はドクトル・ジ日ン・ダ

    ブリュ月・ホーカル氏がその師長の位置にあり,その後ヒチコックが

    1861年8月より約50年間勤めている6),

     彼の考えによれば,上帝(神)から与えられた身体を保生(ハイぜ

    ン)するのは人間の責務である.保生の義は一ドクター・イー・エ

    ー・パークス氏の言を引きながらつぎのように言う,

     r保生ノ広汎ナル意義ヲ以テ言ヘバ即チ身体及思慮ヲ養成スルノ義

  •               明治初期の体育  49ニテ身体卜思慮トハ互二分離スベキモノニ非ズ身体ハ思慮ノ作用二関

    シ思慮ハ身体ノ形状二関ス是故二人筍モ保生ノ術ヲ得ント欲セバ当二

    其身体ヲ壮健ニシ其才智ヲ磨キ其道徳ヲ修ムベシ此三者二於テーモ備

    ハラザル者アレバ真ノ保生二非ズ能ク道徳ヲ修メ能ク才智ヲ磨キ能ク

    身体ヲ強壮ニシテ始メテ之ヲ善人ト謂フベキノミ」7).

     言葉を換えて言えば「健康」の広義の解釈を基礎にした,保健思想

    に基く体育論と言ってよかろう・この考えは一貫して貰ぬかれてい

    る.

     アマースト大学の学生はr初年生徒ヨリ4年生二至ル迄1週間二4

    日1日半時間ハ皆必ズ体操揚二至リ教師二接見シテ体操二従事」すべ

    きであるとされ,その課業の趣旨は次のようである.

     r第1・生徒二体操術ヲ教授スルニハ唯各自ノ軽捷強剛ノ技或ハ筋

    肉ノ強カヲ得シムル事ヲ主トセズシテ専ラ善ク全身ノ健康ヲ保タシム

    ル事ヲ務ム可シ

     第2。各生徒ヲシテ毎日半時間体操二従事セシムベク仮令毎日之二

    従事スル事能ハザルモ1週間二4日ハ必ズ従事セシム可シ

     第3・教師タル者ハ各生徒二最モ適応ナル体操ヲ教授シ謹ミテ非常

    過激ノ運動ヲ為サシメズ又勉メテ均シク全身ヲ労セシメ偏二一部ノ勢

    カヲ疲労セシム可ラズ

     第4,体操課二於テハ文学課二於ケルガ如ク生徒ノ優劣ヲ記載スル

    事能ハズト難能ク生徒ノ順良,注意及ヒ規則二従フト従ハザルトヲ記

    載シ以テ生徒ノ階級ヲ定ムベシ

     第5・課業時間中若干時間ハ各生徒ノ嗜好二従ヒテ其心身ヲ保養セ

    シム可キ随意ノ運動ヲ為サシム可シ然レトモ投球揚(ボーリングアレ

    ー一 ハ妄二之ヲ使用セシメズ若シ之ヲ使用セン事ヲ願フ者アレバ能ク

    其時間ヲ限定シテ之ヲ許スベク且総テ随意運動ハ其種類ノ如何ヲ問ハ

    ズ必ズ体操教師自ラ之ヲ監督スベシ」8)。

     これによってアマースト大学の体操の概略は理解されるであろうが,

    若干問題を整理して補足しておくことにする.

    (1) 運動の内容

  • 50  一橋大学研究年報 自然科学研究10

     まず運動の内容については,健康の保持・増進をはかるという立揚

    から,過激な鍛練的なものではなく,むしろ養護的ともいうべきもの            ラ イ トが主体になっている.これは「軽易体操」と呼ばれる,器械は使用さ

    れはするが「多クハ木製ノ『ドンベル』ニシテ其重量一碕ヲ越工」な

    いものでr勢力ヲ労費セシメズ唯適宜二其勢カヲ運動セシムル」9)の                        ピ ア ノがねらいとされる.30分の運動時間のうち,最初の20分は大洋琴の         じ伴奏によって一応一斉に運動するが,後の10分間は個人差に従って

    「重量ノ器械」も使用され,また急歩する者もあり,その他「躍ル者         トソボガヘリアリ歌フ者アリ鰍轄或ハ働闘ヲ試ムル者アリ以テ各自ノ身体ヲ保養

    ス」10)とかなり自由な活動の余地が残されている,

    (2) 指導の方法

     指導の方法においては個人差への着目が為され決して画一的ではな

    かったと思われる.

     つぎのように言われている.

     r同級ノ生徒二於テモ亦其年齢幼長ノ差アリ其勢力強弱ノ別アリ是

    ヲ以テ同一ノ体操ヲ教フベカラズ」と.さらにまた,「身体教育ノ要

    スル所ハ各自ノ勢カヲ強壮ニシ身体ヲ巨大ニスルガ為二非ズ唯各自ノ

    健康ヲ保有セシメテ以テ天稟ノ身体ヲ養成スルノミ若シ各自ノ幼長強.

    弱二関セズ互二争ヒテ其事業ヲ勉励セシメバ或ハ幣害ヲ醸成スル事有

    ラン」11)と過激な競争のもたらす幣害を指摘する.各人が個性的に動

    くが故に「仮令外人ヲシテ之ヲ傍観セシムモ能ク其意ヲ理会スル事ナ

    シ」12)といった状況にもなるのである.

     ここで言われるような個性的で自由な動きを一堂で,しかも一斉に

    行なうには,各自の認識一自らの身体の特性と運動の目的への一

    を高める個別的な指導の徹底によってのみ可能だど考えられるがその

    詳細を知ることは,ここでは出来ない.しかし基本的な考え方につい

    ては次の引用によっても明確に理解されるであろう。

    、 r以前ノ体操ノ方法ハ梢々兵制二倣ヒシト錐近時二至リテハ其方法

    ヲ廃止セリ何トナレバ大学校ノ定規ハ兵制ヲ以テ管理ス可キモノニ非

    ズ其地二在ラズシテ其法ヲ説クハ殆ド無益二属スベキヲ以テナリ且大.

  •                   の   の ず  れ学ノ生徒ヲ管理スノレニ兵制ヲ以テスレバ彼等必ズ憤激ノ意ヲ生ズノレ事

    有ラン何けレバ大学ノ生徒一徳ヲ修メ才ヲ磨絡媚由ノ権利ヲ養

    成スル者ニシ掴鷲難ノ際ニアラザレ・ぐ敢テ兵制ヲ以テ束縛スベキ

    者二非ザレバナリ」13)と.

     さらにまたつぎのようにも言う.

     鮪館の設立後rf2年若クー・5年以来生徒ノ品行、モ亦鰍二進

    歩シテ昨鯨・人モ不品行ヲ以テ退校セ堵ナク又昔年一酒ヲ飲ミ或

    ハ衣服容貌ヲ飾レノ風大二校中二流行セシト髄時二至リテ_其宿幣

    漸次二消滅セリ若シ此宿幣ヲー変セシハ全ク育体保生局ノ功二在リト

    セバ其原因ハ必ズ些細ノ規則ヲ廃シテ専ラ其大要ヲ重シ以テ維新ノ風

    ヲ鰍スノレニ基スベシ是レ即チ生徒ヲシテ自主舳ノ理ヲ了解セシメ

    自ラ其身ヲ保護スル事ヲ知ラシムルノ方法ナリ」14).

     このように見てくると・その方法原理がイ固性腫んじ自主性組ん

    ずる自由蟻的蝸のであること耀解されるであろう.そこではま

    た油自主義の方法原理に立脚した体操の持つ訓育的作用の認識が為

    されていると言えるであろう。それは,形式的・画一的な体操がある

    特定の精神主義的要素一例えぱ愛恥とか忠誠心とかに結ぴつくの

    駕なく淋操の科軸な原理とその有用さを認識したうえでの,自

    発的姻動の長期的に経療れる実践によってもたらされる成果が期

    待されているのだと看倣してよいであろう.

    (3)測定

    最後に体操の効果の測定についてヒチコソクの述べるところに簡単

    に言及しておきたい.

    1彼は疾病に罹る者の数とか出席状況とかに関して多くの数字をあげ

    ているが・ここでは人糊定に関する項目のみをあげておくこ.とにす

    る.

     ドクトル・ハスケット・デルビー氏の考案になるものに習って1171

    人の生徒を対象にしてまとめたといわれる統計表の項目は次のような

    ものである.

    年令厘量,身丈詣丈(r双手ヲ開キタノレ両中指頭ノ距離ヲ言フ」),

  • 52  一橋大学研究年報 自然科学研究10

    胸ノ周囲,胸列(チエストランゲ),腕ノ周囲,前腕ノ周囲,胸量(肺

    活量),筋力15)以上である,

     こうした項目での測定は後に述べるように体操伝習所においてほぼ

    そのままの形で援用されるのである.

     以上,ヒチコックの論を通して考察してきたところから明らかなよ

    うに,リーランドによって我が国に紹介される体操は,生理学的原理・

    原則に基礎を置くものであると同時に,その方法においては極めて自

    由主義的な性格を持つものであったと思われる.

    1) 文部省布達第5号,r今般東京府下二体操伝習所開設候条此旨布達

     候事」『発達史』第1巻,715頁.

    2) 田中不二麻呂,r教育環談」,大隈重僧撰,r開国五十年史」所収,

     731頁.3) 同上書,731頁.

    4) 前掲,r日米文化交渉史」390-391頁参照・なお坪井玄道もつぎの

     ような回想を述ぺている・「明治10年田中文部大輔が米国の体操を見

     て,日本でもぜひ体操学校を起さなくてはならないと考えて帰って来

     た・米国ではアマルスト大学の生理学の教授ミチコック博士に就て・

     熱心に体操を研究し同博士に相談してその教え子たるドクトル・リー

     ランド氏(当時米国では大抵医学士が体操の教師を兼ねて居った)を

     聰する事となったので,同氏の来るのを待って‘明治11年一つ橋に

     始めて体操伝習所を設置した・」r創業時代の師範教育」・『発達史』第

     1巻所収.463頁.5) r『アメルスト』大学健康論演説」(多久乾一郎訳),文部省刊,r教

     育雑誌」第80号,第81号所収・これにはつぎのような説明が附さ

     れているr此論ハ『アメルスト』大学校ノ育体保生局二於テ16年間

     実験セル所二基キ該校ノ博士ヒッチコック氏ノ論述セシモノニシテ

     1877年9月26日米国シカゴノ衛生会二於テ之ヲ朗読セリ」.(なお

     以下の引用はすぺて雑誌の号数のみを記す,)

    6) Leonar(1,E E&AHleck,G,B,The H:istory of Physical

     Education,1952.277-278頁,及ぴ前掲r教育雑誌」第80号参照.

     なお育体保生局の師長に関してつぎのような一頃がある。r育体保生

     局ノ師長二選任セラレタル者ハ必ズ能ク医学二熟練セル人二限ル可ク

     且其他ノ教師及学師ト等シク大学教官ノ員二列スル事ヲ得ペシ」。

    7)同上書,第80号。

  • 明治初期の体育  53

    8)

    9)

    10)

    11)

    12)

    13)

    14)

    15)

    同上.

    同上.

    同上,

    同上書,第81号.

    同上書,第80号.

    同上.

    同上書・第81号・

    同上.

    3。生理学的体育観の確立

     リーランドGeorge Adams Leland.(1850-1924年)を招聰して体

    操伝習所を開設するに際して,文部省は明治11年9月6日体操取調

    掛なるものを設け,伊沢修二をその任にあてている.これは伝習所設

    立と同時に発展解消し,伊沢が引続き初代伝習所主幹となるわけであ

    るが,我が国最初の体操の本格的な導入において彼の果した役割は大

    きいものがあった・そこで伊沢修二を中心にして体操伝習所の働きを

    追っていくことにする.

    (1) 伊沢修二と「新体操法実施について」

     伊沢は明治8年7月,高嶺秀夫,神津専三郎とともに「師範学科取

    調ノ為メ」米国へ派遺されプリソジウォーター師範学校(State Tea-

    ches College Bridgewater,Massachusetts)及びハーバード大学

    (Harvard Univeτsity,Massachusetts)に学び,最後の1年は専らハ

    ーバードでの理学実験で過した後,11年5月帰国している.

     留学中彼が最も苦労したのは唱歌の課業と英語の発音であるといわ

    れ,そのためにボストンの音楽教師L・W・メーソン(明治13年来日),

    さらには電話機の発明者G・ベルに師事し,それが後に吃音矯正術,

    音楽教育に貢献する因となったのは周知のとおりである.それに加え

    てもうひとつ注目しておきたいのは,彼が当時米国で流行のダーウィ

    ニズムの影響を強く受けたことである,明治12年には早くも,ハッ

    クスレーの「生種原始論」を翻訳出版しているほどである.その片鱗

    は後に述べる「新体操ノ成績報告」にもうかがえる.

  •  54  一橋大学研究年報 自然科学研究10

     ところで体操取調掛としての伊沢の任務は(1)現在日本の諸学校

    に行われている体操の調査,(2)アメリカの体育を移入するに当って

    取るぺき方法の研究にあったと思われるが,彼がそこで如何なる構想

    を抱いたか,取調掛就任後伝習所設立にいたる間に書かれたと推定さ

    れる「新体操法実施について」1)によって考察を進めていくことにす

    る.

     その中で彼はr生徒選定法」r従学の方法」r体操場建設の目的」「着

    手の順序」の項目にわたって具体策を述べているがここでは一般的な

    方針のみを問題にする.

     つぎのように言う.

     r体育智育心育の三者並行して偏廃す可らざるは教育の真旨たる蝶

    々の弁を要せずと難も能く其権衡を失はずして最良の結果を得んは古

    来世界に曾て有らざる所なりと云んも可なるべし.就中体育の事に至

    ては往古希臆羅馬に於て競勇の技専ら行れし時代を除くの他洋の東西

    を問わず地の南北に論なく未だ曾て体育の規準を立て之を教育の一科

    として全国に実施せしめ其良菓を得しの例あると聞かず.是れ教育家

    の常に痛惜する所と錐ども其事業たる容易ならざるを以て遂に止むを

    得ざるに附し去る者の如し.就中我国の如きは維新以来昔時の武芸は

    全く落ち壮年の輩の従事する所全く智育の一方に偏し其大脳力能く国

    論を動すに足るも其体力百斤を挙ぐるに足らず・今我省斯る偏僑の教

    育は其菅利益なきのみならず却て巨害の因たるを察し遠く体操教師を

    米国に聰し大に体育の欠を補んとす.其挙たる善と称すべし美と讃す

    べきなり.雛然一般学者の風既に前条述るが如き幣に陥る事年久しき

    を以て与論は却て此美に背馳するものなきに非ず.故に之を矯正せん

    と欲するも緩急順序其宜きを得ざれば到底良果を獲ん事難かるべし.

    是れ其事業を起すの始に当って当局の最も戒慎して筍も軽挙に出る過

    なきを要する所以なり,」2)

     まず教育を,スペンサー流に「体育智育徳育」と3分し,今昔東西

    を問はず(ギリシャ・・一マを別にして)あまりに体育が粗末にされ

    てきたことを述べ,その実践の困難なことにふれている.また維新以

  •                    明治初期の体育  55

    来我が国の教育の知育偏重の幣を指摘し体育を興すのが如何に重要か

    を論ずる。この論の是非を論ずるつもりはないがジスペンサー流の3

    分法一当時の教育論はほとんどすべてがそうだと言っても過言では

    ないが一に従うこと自体がすでに体育の性格を大幅に規定するもの

    である点は注目しておきたい.つまりそこで直ちにうかび上ってくる

    のは伊沢も言うように「体力」であり,「智徳養成ノ基本ヲ作リ且支

    体ノ強カヲ増加」3)するのが体育の目的となってこよう.歴史的には

    知育偏重の幣をあげて徳育や体育を云々するのは極めて大きな危険を

    冒す揚合が多いいと考えられるがここではこの問題には立ち入らない

    こ.とにする.

     ところで体育の重要さをどうして認識させようというのか.伊沢は

    ρぎのように言う.

     r一般学者の尚志唯智力を是れ長ずるの一点に趣くに当り今之を転

    じて体力を養ふの方向に岐行せしめんと欲せば先体育の良能ある所以

    を信ぜしめざる可らず.凡才識あるの人皆体育の貴ぶべきを知らぜる

    に非ずと難も或は書を読み或は理を聞て然る者ならむと想像するに過

    ぎざるを以て其信ずる所亦随て深からず.……故に体育の功験を眼前

    に掲載し以て其証の確乎疑ふ可らざるを知らしめば始て其挙の妄戯に

    属せざるの信を世人に得るに庶幾ん乎」4),

     それではr体育の功験を眼前に掲載」するにはどうしようというの

    か.

     r現今欧米諸国に行はるる所の体操術を伝習し直に之を採て我生徒

    に適用すべき者と認め其既に彼国に於て奏したる功験を例示し以て人

    の信用を得んとする乎.鄙見に依れば未だ可と認得べからざる者の如

    し」.

     「米国麻州アマスト大学校にて現行の体操術を掛酌して我生徒に適

    すぺきの一法を制.し先其適否を経験して良菓を得ば之が実証を公告し

    て漸次世の信用を得始て之を適当の諸学校に施すぺし」5)。

     ここに伊沢のナショナリストとしての面目があるともいえようが,

    .それにしても「直に之を採て我生徒に適用すべき者」と認め得ないと

  •  56  一橋大学研究年報 自然科学研究10

    する理由は弱い.彼は衣食往の習慣のちがい,就中食生活の相異を生

    理学的な問題としてあげているにすぎないのである.

     ここで音楽教育に対する彼の見解に対比してみるのは無駄ではない

    であろう.

     彼は在米中(明治11年4月8日付)に留学生監督目賀田種太郎と連

    名の上申書を田中文部大輔に提出ているのであるが,そこでつぎのよ

    うに述べている.

     r西洋ノ学ヲ採リテ直二之レヲ用ヰバ事易キニ似タレドモ其ノ我二

    和スルヤ否ヤ又末ダ知ルベカラズ.就テハ右音楽ヲ興ス方法如何二付

    当国ニテ諸向二相質シ,此頃特二其ノ筋二就キ少シク之レヲ採ルニ音

    楽詩諦ハ固,人情ノ自然二出ヅルコト故,其ノ大体ヨリ之レヲ論ズレ

    バ人界中同一タルベキ儀ニテ彼レノ音楽ノ如キモ,我二適応スベキモ

    ノ有之,到底彼我和合シー種ノ楽ヲ興サバ我公学二唱歌ノ課モ追々相

    立候様可相成ト存候」6)。またつぎのようにも言う.「我国雅俗ノ音楽

    歌曲並二西洋ノ音楽曲調ノ中其ノ最モ善良ナルモノヲ混和シ以テ国楽

    ヲ興スベキナリ」7).

     こうした考えに基いて和洋折衷の小学唱歌が作られていくことにな

    るのである.この音楽教育への考えが体操へ転用されたと見てよいよ

    うである。新体操の功験を実験的・実証的に検討しようとする上述の

    ような方針は,後に述べるように確かに貫ぬかれたが,はたして主体

    的であり得たのかどうか,少なくとも折衷するほどのことが為された

    のかどうか,1年後(明治12年9月)に出された「新体操法ノ成績報

    告」によってこれを考察してみることにする.

    (2) 「新体操法ノ成績報告」と新体操

     「我世界ハー大戦場ナリ.甲乙相搏シ丙丁相撃チ智ハ愚ヲ制シ強ハ

    弱ヲ圧シ凡ソ最下生物ヨリ最上動物二至ルマデ筍モ生ヲ両間二有スル

    者熟レカ此範囲ヲ脱スルモノァラン」s〉このように「成績報告」の冒

    頭に,進化論による適者生存・弱肉強食の論理をふりかざす.世界の

    情勢が既に如様である以上「屈抑の城ヲ出デ伸張ノ境二還ラン」には

    r心体二力」を教養しなければならない.その期待が普通教育に寄せ

  •                   明治初期の体育  57

    られるわけであるが,普通教育の目的とする所は「賢人知者ヲ造成ス

    ルニ非ズ.又猛将勇士ヲ・陶治スルニ非ズ.唯一般人民ノ心体ニカヲ養

    成シテ国家無事ノ日二在テハ恒心アル良民タリー且事アルニ当テハ報

    国心アル良士タラシメントスルニ在ルノミ」9)と言われている.こ二

    には愛国心の教育にふれるところがあるが,体操との直接的な関係を

    述べているのではない.体操に対しては,少なくともこの時点では伊

    沢は徹庫的に合理主義者であるにすぎない。むしろ先に述ぺたヒチコ

    ソクの「兵式」を論ずる論じかたとの類似に注目しておくべきであろ

    う.この類似は随所に見られるのである.

     r成績報告」は要するに体育啓蒙論だとして一言で片づけることも

    可能であろうが,その体育啓蒙論を展開する基礎をr心体ニカ」の関

    係の論においているのは一応注目しておいてよいであろう.以下伊沢

    の説く所を引用する.

     r心体ニカ教養ノ方法二至テハ其議論ノ帰蒲スル所概ネニ派二分岐

    ,ス.甲説二日ク心カト体カトハ其性雰壌相異ナル者ナリ,故二単二其

    一ヲ教養シテ他二関係スベカラズト.乙説二日ク心力卜体カトハ密接

    ノ関係ヲ有スル者ナレバ其教養二至テモ亦併行セザルヲ得ズト.

     今甲乙ノ各其理アルニ似タリ.然レドモ甲ノ説ク所ハ仮令論旨深遠

    微妙二渉ルモ事実ノ以テ之ヲ証明ス可キモノナシ.何トナレバ身体ト

    精神トヲ分離シ単二其一ヲ取リテ之二試験ヲ行フ能ハザルヲ以テナリ。

    誠二思へ熟レカ能ク身体生存中ニアラズシテ心カノ動作ヲ観察スルモ

    ノァリヤ.故二余ハ乙ノ論旨二就キ其事実ノ最モ著明ナル者ヲ挙ゲ心

    体ニカ相関スルノ理ヲ開陳ス可シ」10)として例えば次のように具体例

    を列挙する.

     「今若シ親友相会シテ快談娯楽ヲ尽シ心中歓喜スルトキハ飲食自ラ

    進ミ身体ノ軽爽ニシテ体力ノ増加ヲ覚工又親戚朋友ノ不幸二際シ心理

    悲痛スルトキハ飲食頓二減ジ身体枯痩シ随テ体力ノ衰頽ヲ招クハ吾人

    ガ経験二因テ熟知スル所ナリ.是レ甲ハ心力伸張ノ因ヨリ体力増進ノ

    果ヲ生ジ乙ハ心カノ活動ヲ妨グルノ因アリテ体力ノ生育ヲ減ズルノ果

    ヲ来タス者二非ルヲ得ンヤ」11)と.この論は明治期にあって体育論と

  • 58  一橋大学研究年報 自然科学研究10

    しては最もすぐれた・まとまりのあるものだと考えられる高島平三郎

    の「体育原理」(明治37年12月刊)において展開されている「常識二

    元論」を想起させるものがある12).体育論を心身の関係から論述しよ

    うとするのはひとり伊沢に限ったことでは勿論なく,それ自体大きな

    問題であるが,ここでこれ以上述べる余裕はない。

     ところで「成績報告」において「体操法ノ適否」を論ずる根拠はど

    こに求められているかというと,さきに述べたヒチコックのそれを模

    倣したとしか思えないものがある,今その結論だけあげるとつぎのよ

    うである.

     「以上数章ノ考証二因リ此体操法ハ次二掲ル所ノ成績ヲ生ゼシヲ知

    ルベシ.日ク食量ヲ増進シテ身体ヲ補養ス.日ク肺量ヲ拡張シテ毒気

    ヲ排除シ養気ヲ充足ス,日ク筋肉ヲ育成シテカ量ヲ増加ス,日ク過分

    ノ脂肪ヲ除却シテ身体ノ肥満ヲ制ス.日ク体力愈々盛ニシテ疾病頓二

    減ズ,日ク心力益々強クシテ学業大二進ム.

     凡ソ教育家タルモノ誰力斯ノ如キ良績ヲ得ント翼ハザルベキ」13)と.

     体操実施の困難さについてはr此体操法二要スル器械ハ唯唖鈴棍棒

    球竿等二三ノ簡易ナル物件二過ギズ」14)と,その心配が無用であるこ

    とをことわっている。

     また体操の性格を見定めるうえで重要な指標となる,武術,兵式体

    操との関係についてみると「世或ハ撃剣練兵等ヲ以テ至良ノ体育法ト

    シ漫二之タ施行セント欲スルノ徒ナキニ非ズ.因テ数言ヲ費シテ其価

    格如何二論及セン.抑撃剣ノ如キ練兵ノ如キ其技術自ラ体育ヲ稗ケザ

    ルニアラズト難ドモ其目的トスル所ハ素ト育成ノ法二非ズシテ防護ノ

    ー主義ナリ,是ヲ以テ身体諸部ヲ使用シ随テ之ヲ発育スルコトアルモ

    惟支体ノ若干部二偏止シテ其全部二普及スルコトナシ.之ヲ完全ナル

    体操法ノ専ラ育成ヲ目的トスル者二比セバ其価格幾等ヲ下ルコト知者

    ヲ待タズシテ知ルベキナリ」15)と否定的に見るのである.

     以上のように伊沢の報告書に言うところは体操の効果の検証の仕方,

    兵式体操への見方等においてもヒチコックの論述に類似したものであ

    ることが知られるのである.これによっても.リーランドの伝習した

  •                     明治初期の体育  59

    体操が,従ってヒチコックを中心とするアマースト大学の体操が体操

    伝習所へ全面的に受け入れられたとしなけれぱならないであろう.

     このようにr欧米諸国の体操術」が無批判に受け入れられたとみら

    れるわけであるが,その原因はどこにあるのか.

     まず第1に考えられることは,r学制」時代の体操の実状からして,、

    ともかく一応の理論的基礎をもった体操が行なわれること自体が驚く

    べきものであったろうし,また多少なりとも樹中体操法図以来の養護

    的な体操の考え方がそれを助長する基盤となり得たとすれば,伝来の

    武術を持ち出さない限りはこれを批判するだけの伝統はなかったと思

    われるのである16).

     第2にはその推進の任に当った伊沢自身,この期の思想家の共通性

    ともいえる,かなり極端なナシ。ナリストである反面では,同時に極

    めて合理主義的発想を持っており,体操が身体へ与える影響のr合理.

    性」を科学的に実証しようとする「新体操法実施について」の立揚そ

    のものがすでに生理学的な体育観に立っているとも考えられるのであ

    る。そうだとすれば,体操の筋肉や内臓諸器官に与える影響が「彼.

    我」において異なるべきものではないとする判断は為されてしかるべ

    きものがあろう。かくて伊沢の「新体操ノ成績報告」によって生理学、

    的体育親が,いわば文部省の公式見解として確立されるのである,し

    かしこのことは同時に,西欧諸国で体操を生み出し発展させた風土や

    社会的諸条件を無視したのだとも解されるのである、

     第3に,伊沢も「成績報告」で述べているように,体操が比較的狭

    い揚所でしかもわずかな用具で出来る性質のものだったということも,.

    体育への考慮は全くといっていいほど払われていない当時のわが国の

    学校へ普及させるのには誠に好都合だったといえるであろう。しかし

    ここには大きな間題が含まれているのである.つまり,アマースト大

    学の体操が決して形式的なものではなく,ヒチコックも言うように外

    からそれを参観しても何をしているのか理解し難いほどのものだった.

    .とすれば,それをそっくりそのまま移入するのは相当困難であろうと

    考えられ(リーランドの直接の指導を受けた伝習所はともかくとしで

  •  60  一橋大学研究年報 自然科学研究10

    も),動きの形式性とその生理学的論拠といういわば外形だけを取入

    れる結果に陥る危険性が考えられるからである.勿論伝習所の体操が

    その頭初から形式的・抑圧的であって,命令に対する服従の強制をも

    ってその教育的価値を言々するが如きものであったと言うのではない.

    問題はむしろ伝習所を通して全国へ普及されていく過程にあろうと思

    はれる,

     ここでは伝習所の活動についてはむしろ,可能な限りあらゆるもの

    を摂取することによって多様な発展の可能性を秘めていたと思われる

    点を強調しておきたいと思う,

     そのいっ端をうかがえば,音楽を伴奏として用いるのは早くから為

    されていたようであるしの,色々なスポーツも行なわれていた。坪井

    玄道はそれを回想してつぎのように述べている.r体操も運動会もだ

    んだん自分の学校でやるようになった.又比頃からボートレースを生

    徒にやらした.一つ橋の下ヘボートをつないでおいて,そこから日本

    橋をへて永代橋に出で,それから向島までこいでいくのは容易でなか

    った.猶べ一スボールも教へた.併しこの頃は空挙でキャッチをやる

    ので大抵指を曲げて了った」1s)と.

    (3) 生理学的体育観

     生理学的体育観についてはすでにその大略は明らかであるが,なお

    2,3の例を述べ補っておくことにする。

     文部省第8年報(明治13年)によれば「体操伝習所ノ在学ノ生徒ハ

    其体操法ヲ実習セルコト始一年半二及フヲ以テ其学術頗ル進歩シ既二

    第三学期ヲ率ヘテ将二卒業ノ期二至ラントス是ノ際二当リ専ラ我力人

    情風土二適応ス可キ体操法ヲ講究創定スルハ目下最モ緊要ノ事項ニシ

    テ之ヲ講究スルニハ必ス解剖学,生理学,健全学等ヲ熟知セサル可カ

    ラス然ルニ所謂解剖学ノ如キモ従来単二図書上二就キテ其要領ヲ知ラ

    シムルノミニシテ未タ実地解剖術二由リテ精密ノ経験ヲ為サシムルニ

    至ラサルハ稿ク遺憾トスル所ナリ」19)と述べている.r我力人情風土

    二適応ス可キ体操法」の講究創定を専ら自然科学的研究を深めること

    によって為そうとし,そのために解剖実験がぜひとも必要だというの

  • 明治初期の体育  61

    である.この要求は叶えられている.すなわち翌,第9年報(明治14

    年)ではつぎのように言われているのである.このような要求は「本

    年二至リ皆之ヲ挙行スル事ヲ得タリ即チ動物ノ解剖プレパラートノ使

    用等ヲ教授シ人体ノ解剖ヲ為サシムル」20)と.如何に解剖・生理を重

    んじたかが了解されるであろう,

     体操伝習所の書物としては,明治15年5月,リーランドの実地教

    授を筆記翻訳(坪井玄道訳)した「新撰体操書」が出版され,つづい

    て同年6月,伝習所第1期卒業生の編纂したr新制体操法」が出され

    ている.その緒言にはつぎのように体操の目的を述べている.

     「体操ノ目的タル脆弱ヲシテ梢ク健ナラシメ壮強者ヲシテ益盛ニナ

    ラシメテ常昌活灘ノ状態ヲ保タシムルニアリ又此術ハ病ヲ療スルノ具

    タラサルモ疾病ヲ予防シ体中ノ悪質ヲ変換セシムルニ於テ著明ノ功効

    アルヘキコト復疑ヲ容レサル所ナリ蓋シ身体ノ諸器ハ互二相待テ然ル

    後始メテ充全ノ作用ヲ為スモノナルカ故二一器ニシテ若其作用ヲ怠ル

    トキハ其影響全体二波及シ遂二避ク可カラサルノ大患ヲ惹起シ復完全

    ノ人タルヲ得サルニ至ルヘシ故二此発育ノ充全ヲ期センニハ唯身体ノ

    各部ヲ斉一二運動セシムルノー途アル而己此書載スル所ノ諸法ハー二

    此理二基クモノナリ」21).

     要する・にこれを予防医学としての体操と呼んでもよいであろう.ま

    た,r身体ノ各部ヲ斉一二運動セシムルノー途アル而已」とするとこ

    ろから形式化への兆を見ることもできるであろう.

     さいごに伝習所の卒業生である星野久成編纂のr体操原理」(明治20

    年2月)についてその概略を見ておくことにする.全編15章からな

    るその目次はつぎのようである,

       立血早章 立早 出早 血早

    1 2 3 4 く》

    第第第第第

    体操

    身体栄養の原理

    筋肉の構造

    筋肉中老廃物及栄養物の出入

    老廃物及栄養の出入,器械的作用に依て補助せらるるの

  • 62  一橋大学研究年報 自然科学研究10

    第6章第7章第8章第9章第10章第11章

    第12章

    第13章

    第14章

    第15章

    筋肉の遠心収縮及求心収縮

    筋肉系統に於ける体操の効果を論ず

    血行器に於ける体操の効果を論ず

    呼吸器に於ける体操の効果を論ず

    皮膚に於ける体操の効果を論ず

    消化器に於ける体操の効果を論ず

    神経系統に於ける体操の効果を論ず

    体操の身体上に生ずる効果結論

    体操の分量

    体操の治革

     このうち第1章は総論ともいうぺきものであり,第15章は簡単な

    体育史である.その他はすべて生理学的観点が貫徹されている.今第

    1章についてみると,「体操トハ何ゾヤ身体諸器ノ官能ヲ活動スルコ

    ト是レナリ眼ノ物ヲ見耳ノ声ヲ聴キ……抑体操ノ称ヲ得タルハ筋肉ヲ

    活動スルヨリ生ジタル者ナリト難ドモ其実ハ身体ノ他器ヲ使用スルモ

    同ク体操二非ルコトナシ」22).これによれば食物を摂り消化するのは

    胃の体操ということになる.こうして生理学的視点を貫ぬいて結論さ

    れるところは「新制体操法」と同様に予防医学としての体操というこ

    とになる.第13章においてつぎのように言う,「体操ハ疾病ヲ予防

    スル最強具トシテ漸漸予防医術中著キ位地ヲ占ルニ至ルナラン」23)と.

     このように明治10年代において生理学的体育観が確立するのである24).

    1) 信濃教育会編,r伊沢修二選集」所収・なおこれの書かれた期日に

     ついて『選集』ではr明治11年10月25日文部省内に体操伝習所 を創設・其主幹を命ぜられ,新体操法実施に当って発表した構想であ

     る」(226頁)とされているが,これに対して能勢修一氏はrこの見

     込書は少なくても明治11年(1878)9月6日伊沢が体操取調掛に任

     用されてから同年10月1日の間において書かれた」(r伊沢修二『新体

     操実施法』見込書」,r体育学研究」第7巻,第2号所収4頁)と推定

     している.その根拠は伊沢がr着手の順序」としてr第1,リーラン

  • 明治初期の体育  63

      ド氏をして各学校を巡視し現有の体操器械と現行の練習とを検察し其

     利害得失を考へ将来改良の方按に注意せしむる事」(前掲,『選集』230

     頁)と述ぺており,またリーランドが実際に東京女子師範学校を訪ね

      たのがr明治11年(1878)10月」(文部省第7年報,348頁)であ

      って,これは伊沢の方針に従って為された訪問であるから10月以前

      に書かれたと推定されるわけである,しかしこれだけで10月1日と

     限定することはできないであろう・いずれにしても9月6日から伝習

     所開設(10月25日)以前の比較的早い時期であるのはまちがいない

      と思われる.

    2) 前掲,r伊沢修二選集」226頁.

    3) 伊沢修二,r教育学」147頁.

    4) 前掲,「伊沢修二選集」226-227頁。

    5) 同上書,227頁.

    6) 同上書,244頁.

    7) 同上書,248頁,           亀

    8) 伊沢修二,r新体操法ノ成績報告」,前掲,『選集』所収,231頁。

    9) 同上書,232頁.

    10)同上.

    11)同上。

    12) 高島はr心身相関論」は本来心理学や生理学ゼは説明しつくし得な

     い事柄で・従って哲学上の問題であるとしながら次のようなr常識二

     元論」の立揚を述ぺている,

       r余ハ心身ノ関係ヲ科学的に説述センニハ常識的二元論ノ立揚ヲ取

     ルコト最モ安全ナリト信ズ・即チ常識二考フルガ如クニ人ニハ精神ト

     身体トノニ者共存シテ・其ノ間二互二因果ノ関係ヲ有セリトスルモノ

     是レナリ・教育上実際二児童ヲ取リ扱フ者ハ精神アリテ後身体生ゼリ

      ト説カンモ身体成リテ後精神アリト説カンモ別二事実上二影響スル所

     ナシ。科学トシテノ心理学及ビ生理学ヲ修メントスル者ハ,タダ両者

     ノ相関スル確実ナル現象ヲ捉ヘテ,コレガ研究ヲ試ミル可キノミ」(r体

     育原理」55頁)と述ぺ。心理学的現象と生理学的現象の相互に基盤

     となって他を規定し合う事実をあげ,体育原理に資そうとしている,

    13) 前掲,「伊沢修二選集」240頁、

    14)同上,                    .

    15) 同上書,241頁.

    16) r明治13年12月の元老院における教育令改正審議でも,開明派

     の元明六社員津田真道などが,国家防衛の見地から,『緩急アルアラ

     ハ全国ノ子弟ヲ駈テ直チニ兵ト為スヲ得ヘシ』として武技を教則中に

  • 6ヰ  ー橋大学研究年報 自然科学研究10

     含めるよう提案しはじめる」(上沼八郎,r伊沢修二」一近代日本の

     体育思想1-r体育の科学」第14巻第2号所収,103頁)と言わ

     れ,体操伝習所の活動内容としても間もなくこれが日程にのぽってく

     る,後述.

    17) 前掲,『発達史』第2巻,316頁にはつぎのように記されている。

     r明治13年3月楽人1人を雇ひ体操演習の間洋琴を合奏せしめた・」

    18) 前掲,r創業時代の師範教育」,『発達史』第1巻所収,717頁・ま

     た文部省第9年報(明治14年)にはr操舟ノ術ヲ練習セシメタリ」

     (34頁)とある.

    19) 文部省第8年報。23-24頁・

    20) 文部省第9年報・34頁,

    21) 体操伝習所刊,r新制体操法」緒言.

    22) 星野久成編纂,「体操原理」3頁。

    23) 同上書,88頁.

    24)r体育」とr体操」の区別は伊沢もしているし星野も同様である。

     しかし一般には生理学的見方が優勢であれぱあるほど体操即体育とい

     うことになるのではなかろうか、つぎの引用を参照されたい。

      r体育トハ身体長育ノ定法二従ヒ之ヲ養成スル霜助ヲ適宜二施シ以

     テ体中諸器ノ大サ形状及功用等ヲシテ完全ナラシムル方法ヲ云フ而シ

     テ其轄助トナルベキ者一ニシテ足ラズト難ドモ其最モ適当ナル者ハ組

     織シタル運動即チ所謂体操ナル者是レナリ」,同上書,1頁.

    4.体育論の屈折

     明治10年代に生理学的観点に立脚する体育論が確立する一方では,

    これとは対象的に武術や兵式体操が注目を浴びてくる。そこには普通

    体操(坪井玄道はnormalgymnasticsをこう訳した.伝習所の体操

    は多くの揚合こう呼ばれる)の生理学的な見地からは明らかに矛眉す

    るはずのものが平然と並立していくことになるのである.

     先に伊沢修二がr新体操法ノ成績報告」において武術や兵式体操を

    否定的に見ていることを述ぺたが,しかし伊沢のこの論点も明治15

    年に出版されている「教育学」およぴ「学校管理法」についてみると

    微妙な屈折を示している,

     すなわち彼はつぎのように言うのである.

    一r練兵科ハ我国ノ如キ国民軍ノ制度アリテ在学ノ生徒多クハ皆将来

  •                   明治初期の体育  65

    兵役二服スルノ義務アル処ノ学校二於テハ其時ヲ謀リテ之ヲ体操科中

    二組入レテ授クルヲ善トス」1)と,またつぎのようにも言う.

     r軍器ノ制」の変革に伴いr従来ノ武術ハ僅々其用ヲ見ルニ過キサ

    ルニ至リシヲ以テ漸ク其実用ヲ失ヒ随テ衰敗ノ兆ヲ顕シタルモノナリ

    然レトモ之ヲ体育ノー法トシテ見ルトキハ決シテ価格ナシト云フ可ラ

    ス」2)とむしろ肯定的でさえある.

     勿論,この武術・兵式体操への見方の転換が体育論の生理学的立揚

    そのものの放棄を意味するものではない3).そうではなくて,生理学

    的な立揚からすれば,それに固執しているわけにはいかない.より大

    きな歴史的・社会的なカヘの妥協が為されているのだと考えるぺきで

    あろう・一応はその立揚を保ちながらも一旦否定したものと奇妙な同

    居をしていく.ことになるのである.またこうした屈折がひとり伊沢に

    限ったものでないのは言うまでもない。それは伝習所の体操の屈折で

    もあった.

     すでに明治13年11月伝習所では,文部省の通牒によって歩兵操

    練(兵式体操)を行なっているのである4),

     また同14年4月には「生徒の操銃術較熟したから,陸軍戸山学校

    に通議し同校構内射的揚を借受け1週1回生徒を派遺し実地射撃の技

    を練習」させている5).

     さらに同年9月の教旨の更定で.は,「文部省直轄学校学生々徒及ヒ

    府県ヨリ派遺スヘキ伝習員等二体操術ヲ援クル所トシヌ又在来生徒ノ

    為二従前ノ教規ヲ改正シ其副科ヲ体育論講義,生理学,健全学,物理

    学,化学,英学トシ加フルニ歩兵操練科ヲ教授スルコトト定メタリ是

    二於テ各府県ヨリ伝習員ヲ徴集シテ其教授ヲ始メ在来ノ生徒二向ヒテ

    ひ本科ノ余別二毎週一回修身学ヲ教授シ蓋シ本科生徒ハ他日人ノ師表

    タルヘキモノニシテ居常品格ヲ高尚ニシ筍モ他ノ信用ヲ失ハサラン事

    ヲ務メサルヘカラサルナリ」6).といわれている,

     ここには明らかに時代の動きを読みとることができる.すなわち伝

    習所の歩兵操練の実施及び教則の改正は,明治12年10月徴兵令が

    改正され・免役範囲の縮少,兵役年限が延長され(7年が10年に)

  •  66  一橋大学研究年報 自然科学研究10

    て国民皆兵の理念に近づくなかで当然為された要求と解さなければな

    らないであろう.また先の引用中新たに「修身学」の講義を加えた原

    因は,12年の教学聖旨(教学大旨),翌年の教育令の改正,さらに14

    年の小学校教員心得の制定と,自由民権運動の昂揚のなかでとられた

    一連の,儒教主義的方向への教育政策の軽換に求めることができるで

    あろう.

     ところで伝習所と軍隊との結ぴつきは16年12月の徴兵令の改正

    前後から一層密接になってくる.これを伝習所の事跡によってみると,

     文部省は16年5月,剣術,柔術の利害調査を命じ7),17年2月に

    は徴兵令第2章第12条に則って官公立学校において実施すべき兵式

    体操の程度及び方法,小学校に於て実施の適否を諮問し8),その答申

    が前者は17年11月後者は同年10月に出されている、

     さらに,明治18年11月文部省布達第13号を以ってr体育ノ改

    良就中兵式体操実施ノ為メ文部省所轄体操伝習所二於テ修業員ヲ召集

    シ凡ソ四箇月ヲ期トシテ兵式体操及軽体操二関スル学術並二其教授法

    ヲ伝習シ体操教員タルヘキ者ヲ養成スル」9)件が示された・その応募資

    格には「陸軍歩兵下士ニシテ常備現役ヲ離レー箇年以内ノ者但従軍

    ノ実歴アル者等ハ本文ノ期限ヲ超過スルモ採用スルコトアルヘシ」10)

    との項が含まれているのである.

     ところで先の2つの調査についてみると「剣術柔術」は「利害適否

    ノ調査」であが兵式体操はすでに実施を決定してその方法についての

    調査であることには,ひとり武術が近代化していなかったというに止

    まらず,明治政府のとった軍事政策の表出を見なければならないであ

    ろう.

     体操伝習所の答申は両者とも,基本的には生理学的観点に依拠して

    為されており11),したがって慎重ではあるが,既定の方針に異をとな

    えるところは何もないことをつけ加えておきたい。

    1) 伊沢修二,「学校管理法」,99頁・

    2) 伊沢修二,r教育学」,185頁・

  •                     明治初期の体育  67

    3) 同上書ではr運動ノ理法」をつぎのように論じている.(177-179

     頁,

       r運動トハ手足等ノ如キ随意筋ヲ自由二伸縮シテ身体ノ組織中既二

     陳腐二属スルモノハ之ヲ除去シ新鮮ナルモノヲ以テ之ヲ充成スルヲ謂

      フナリ

      運動ノ直接二勢カヲ及ホス所ハ随意筋二在リト難モ間接ニハ其力ヲ

     不随意筋ニモ及ホスモノナリ例ヘハ必臓ヲ成ス所ノ筋肉ノ如キハ素ト

     不随意ノモノナレトモ手足ノ随意筋ヲ動カストキハ其惑勢ニヨリテ自

      ラ伸縮ノカヲ増シ随テ搏動ノ度ヲ加フルナリ

      凡ソ身体何レノ部分ヲ問ハス之ヲ使用スルノカ愈多ケレハ其組織ノ

     陳腐二属セルモノヲ除去スル事愈多ク随テ之ヲ填充スル所ノ新組織ヲ

     要スル事愈盛ナリ又其新組織ノ量愈増ストキハ其発育愈旺スル事明ナ

     ルヘシ故二支体ハ運動セサル可ラス」,

    4) 前掲,『発達史』,第2巻(316頁)にはr同年(13年)11月文部

     省生徒に歩兵操練の一科を教授すぺき旨を命ぜられ,陸軍省に通議し

     教導団より教官として士官一人下士三人を招膀し毎週三回其教授を受

     くることとした」と言われている・(文部省第9年報糾頁にも同じ

     意味のことが記されている)

    5)同上。

    6) 文部省第10年報,29頁.

    7) 文部省第11年報,附録,17頁・r自今本邦劔術柔術等二就キ教育

     上ノ利害適否ヲ調査スヘキ旨体操伝習所二達ス」(16年5月5日).

    8) 文部省第12年報,附録,586頁.r明治17年2月28日,文部卿

     ハ徴兵令第2章第12条ノ旨ヲ参照シ,官立公立学校(小学校ヲ除ク)

     二於テ演習スヘキ歩兵操練科ノ程度施行ノ方法及小学校二於テ該科施

     行ノ適否等取調具申スヘキ旨ヲ達セラレ」とある,

    9) 前掲,『発達史』第2巻,462頁.

    10)同上.

    11) r劔術柔術調査」の中間報告にはつぎのように言うr人身ノ生理二

     徴シ之二学理ノ精窮ヲ加へ以テ確実ノ査定ヲ得ンコトヲ要シ及チ東京

     大学医学部長三宅秀及ヒ同部内外科教師エルウィン・ベルツ,ジュリ

     ウス・スクリバノ両氏ヲ招キテ柔術ノ勢法及ヒ試合等ヲ実検セシメ其

     学術上二係ル利害二就テ意見ヲ討問セシ」・文部省第11年報,附録,

     体操伝習所第5年報,920頁.

  • 68  一橋大学研究年報 自然科学研究10

    むすびにかえて

     わが国の体育の歴史のなかで,はじめて西欧体育の本格的導入の任

    をはたした体操伝習所が大きな意味を持つのは言うまでもない,そこ

    において,生理学的体育観が確立されようとする時がまさにヒチコッ

    クの言うr国家銀難の際」であったのは,その後の体育の歴史の方向

    を象徴しているようにも思われるのである.生理学的体育観がその立

    揚を貫徹するのは困難な状況にはあったが,それにもかかわらず,以

    前からの養護的な体操観と軌をいっにすることによって根強く侵透し

    ていったと思われる.むしろ,歴史的現実と絶えず妥協しながら,そ

    れ故に一層,「動き」そのもあの抽象的な科学性・合理性に固執し,

    体操を形式化させていったと見るのが当っているかもしれない。

     教育論としてこれをみれば「身体の教育」という古い類型に入るの

    は言うまでもない.ということな,少なくとも以上で考察したところ

    からすれば,特定の精神主義的要素と結合したもので嫉なかったし,

    あくまでも体操の持つ,身体への影響の合理性に着目しようとしてき

    たにすぎない,これは一面からみれば進歩的でさえある。しかし無思

    想性はどのようにでも染まるのである,如何に科学的に配慮された体

    操であろうとも,それ自体,歴史的現実からはなれて単独で,粋粋に

    存在することはできない,その実践の持つ訓育的意味は,意図すると

    否とにかかわらずまた程度の差はあれ,如何なる場合でも何等かの形

    で発揮されているはずである.’これに盲目であることは極めて危険で

    あると言わねばなるまい.

                   (昭和42年10月19日 受理)