Kobe University Repository : KernelBoner, James 1897 : „Wirtschaft und Recht, Nach der...

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Kobe University Repository : Kernel タイトル Title 中国残留日本人二世の生活史と社会文化圏の形成(前篇) : 中国での生活 と日本への永住帰国(The second generation of Japanese left behind China after W. W. II. : their life history and sociocultural sphere (part 1)) 著者 Author(s) 浅野, 慎一 / , 掲載誌・巻号・ページ Citation 神戸大学大学院人間発達環境学研究科研究紀要,13(2):89-108 刊行日 Issue date 2020-03-31 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin Paper / 紀要論文 版区分 Resource Version publisher 権利 Rights DOI JaLCDOI 10.24546/81012178 URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81012178 PDF issue: 2021-08-06

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Kobe University Repository : Kernel

タイトルTit le

中国残留日本人二世の生活史と社会文化圏の形成(前篇) : 中国での生活と日本への永住帰国(The second generat ion of Japanese left behindChina after W. W. II. : their life history and sociocultural sphere (part 1))

著者Author(s) 浅野, 慎一 / 佟, 岩

掲載誌・巻号・ページCitat ion 神戸大学大学院人間発達環境学研究科研究紀要,13(2):89-108

刊行日Issue date 2020-03-31

資源タイプResource Type Departmental Bullet in Paper / 紀要論文

版区分Resource Version publisher

権利Rights

DOI

JaLCDOI 10.24546/81012178

URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81012178

PDF issue: 2021-08-06

神戸大学大学院人間発達環境学研究科研究紀要第13巻第2号 2020

2019 年10月 2 日 受付2019 年10月 2 日 受理

序章 課題と定義 本稿の課題は、中国残留日本人(以下、残留日本人)の二世の生

活史、および、社会文化圏の形成の実態を明らかにし、その歴史・

社会的意義を考察することにある。

 本稿は 2002 ~ 2014 年、日中双方で実施した面接聞き取り調査

の結果を素材とする。直接の対象者は 93 名の二世とし、配偶者 31

名、その他 3 名の調査結果も参考にする。

 残留日本人の二世について論じるには、まず残留日本人(一世)

の定義を明確にしておかなければならない。

 残留日本人には、相互に対立する様々な定義がある(1)。

 その中でも日本政府の公的定義によれば、あくまで概括的ではあ

るが、次の3つの条件を満たした者が残留日本人とされている。

①1945年9月2日(日本敗戦・降伏文書調印)以前に中国に渡航し、

同日に日本国籍を有していた者、

②及び、これらのものを両親として、中国で出生した者で、

③引き続き中国に居住し、または 1972 年 9 月 29 日(日中国交

正常化)以後に日本に永住帰国した者

 なお日本政府は、残留日本人の中でも日本敗戦時に概ね 13 歳未

満の者を残留孤児、13 歳以上の者を残留婦人と呼び、区別している。

13 歳以上の男性が少ないのは、主に三つの理由によると考えられ

る。第1に、日本敗戦時に 18 歳以上だった男性はほぼ全員、徴兵

されていた。第2に、13 ~ 17 歳で中国に取り残された男性は同年

配の女性に比べ、中国人に養子または配偶者として引き取られにく

く、中国の地で死ぬしかなかった。そして第3に、この世代の男性

は同世代の女性に比べ、ソ連兵等による強姦後の虐殺の犠牲になり

にくく、また極めて一部だが実父母が逃避行・引揚の際に男児の同

伴を優先した事例が確認できるなど、日本に引き揚げ得た可能性が

若干高かった。

 さて、最も単純に考えれば、このような日本政府の定義に基づく

残留日本人の子供が「二世」ということになる。本稿の調査対象者

も、ほとんどはこれに該当する。

 しかし、現実はそれほど単純ではない。

 まず上記の定義に基づけば、残留日本人が生成したのは 1972 年

(日中国交正常化)以降ということになる。1972 年以降、日本に永

住帰国したか、または引き続き中国に居住した者だけが残留日本人

の定義にあてはまるからだ。

 ではその人々は、1972 年以前は何だったのか。日本政府によれば、

彼・彼女達は日本国籍の「未帰還者」であり、中華人民共和国籍

の「残留日本人」ではなかった。なぜなら国交正常化以前、日本政

府にとって中華人民共和国という国家も、したがってその国籍も存

在しなかったからだ。1972 年以前に日本人が中国から帰還すれば、

日本政府はこれを日本人の引揚者として入国させた。しかし 1972

要約:本稿は、中国残留日本人(残留婦人、残留孤児)の二世の生活史、および、社会文化圏の形成の実態を明らかにし、その歴史・社会的意義を考察する。素材とする調査は2002 ~ 2014年、日中双方でインテンシブな面接聞き取りの方法で実施した。直接の対象者は93名の二世で、配偶者31名・その他3名の調査結果も参考にする。前篇では、中国における生活史(第1章)、日本への永住帰国(第2章)について分析する。二世の中国での生活史は、両親の職業階層に基づく3つの類型によって大枠で規定され、しかも戦後の中国の政治社会変動によって翻弄されてきた。そこには残留日本人の二世に固有の特徴とともに、一般の中国民衆との共通性も濃厚に看取された。対象者の約4分の3は1972年の日中国交正常化以降、日本に永住帰国した。永住帰国の時期は、中国での生活史(3類型)や個々人の意識・事情とはほぼ無関係であり、日本政府の帰国制限政策によって一方的に規定され、総じて遅延し、しかも多様化した。また帰国に際しては様々な制約・困難があり、帰国の時期によって帰国動機や社会意識も変化した。約4分の1の対象者は調査時点で日本に帰国せず、中国で暮らしていたが、そこでも経済的な富裕層と貧困層で大きく異なる生活と意識の実態が見て取れた。キーワード:中国残留日本人 二世 生活史 社会変動論 社会文化圏

* 神戸大学大学院人間発達環境学研究科教授** 神戸外国語大学講師(非常勤)

中国残留日本人二世の生活史と社会文化圏の形成(前篇)-中国での生活と日本への永住帰国-

The second generation of Japanese left behind China after W.W.Ⅱ.:their life history and sociocultural sphere (part 1)

浅野 慎一* 佟 岩**

Shinichi ASANO* Yan Tong**

研究報告

─ 89 ─

( )

1905, S. 1283-1321.

(„Die Anwendung der Deszendenztheorie auf Probleme der

sozialen Entwicklung. Zweiter Teil“, Tönnies, Soziologische

Studien und Kritiken, Fischer, 1925, S. 195-229.)

―――― 1915: (Besprechung: Wirtschaft und Recht, 3. Aufl.),

Weltwirtschaftliches Archiv, Bd. 5, S. 493-502.

Troeltsch, E. 1911: „Das stoisch-christliche Naturrecht und das

moderne profane Naturrecht“, Verhandlungen, S. 166-192.

(Troeltsch, Gesammelte Schriften, Bd. 4, S. 166-191.)

=1981: 住谷一彦・小林純訳「ストア的=キリスト教的自然法

と近代的世俗的自然法」, 住谷一彦・佐藤敏夫ほか訳『トレル

チ著作集』第7巻, 237-272.

Weber, Marianne 1984 : Max Weber. ein Lebensbild, J. C. B. Mohr. (1.

Aufl . 1926)

米沢和彦 1991: 『ドイツ社会学史研究』, 恒星社厚生閣.

=1982: 松井秀親訳「R. シュタムラーの唯物史観の『克服』」, 『世

界の大思想 ウェーバー 社会科学論集』, 河出書房新社, 95-206.

MWG I/12: Max Weber Gesamtausgabe. I-12. Verstehende Soziologie

und Werturteilsstreit, Mohr Siebeck, 2018.

=1990: 海老原明夫・中野敏男訳『理解社会学のカテゴリー』,

未來社.

2. その他の文献

Boner, James 1897 : „Wirtschaf t und Recht , Nach der

Materialistischen Geschichtsauffassung“ (Review), The

Economic Journal, 7-26, 257-260.

平野敏彦 1983: 「自由法運動」, 長尾龍一, 田中成明編『現代法哲学

2:法思想』東京大学出版会: 237-272.

加藤新平 1960 : 「新カント派」, 尾高朝雄ほか編『法哲学講座』第5

巻(上), 53-160.

ラーレンツ、カール 1991: 米山隆訳『法学方法論〔第6版〕』, 青山社.

牧野 雅彦 2007:「ウェーバーとシュタムラー」, 『広島法学』31-3,

155-187.

宮村 重徳 2010 : 「ヴェーバーに於ける『諒解行為』概念の留保或

いは喪失事件」, 法政大学『多摩論集』26, 149-230.

森末 伸行 1994: 『法思想史概説』, 中央大学出版部.

向井 守 2000: 「『シュタムラー論文』の意義」, 橋本努ほか編『マッ

クス・ヴェーバーの新世紀』, 未來社, 240-256.

折原 浩 2007:『マックス・ヴェーバーにとって社会学とは何か』,

勁草書房.

Schluchter, Wolfgang 2003: “The Sociology of Law as an Empirical

Theory of Validity”, European Sociological Review, 19-5, 537-

549.

シュルフター , W., 折原 浩 2000 : 『『経済と社会』再構成論の新展

開』, 未來社.

Schröder, Jan 2010: Rechtswissenschaft in der Neuzeit, Mohr

Siebeck.

=2017: 石部雅亮編訳『ドイツ近現代法学の歩み』, 信山社.

Simmel, Georg u. a. 1911 : Verhandlungen des ersten Deutschen

Soziologentages, J. C. B. Mohr.

Simmel, G. 1896: „Zur Methodik der Socialwissenschaft“,

Jahrbuch für Gesetzgebung, Verwaltung und Volkswirtschaft im

Deutschen Reich [Schmollers Jb] Bd. 20, S. 575-585. (Simmel,

Gesamtausgabe, Bd. 1, S. 363-377.)

=1986: 「社会科学の方法論のために」, 大鐘武編訳『ジンメル

初期社会学論集』恒星社厚生閣, 1-21.

Spann, Othmar 1902: „Die Lehre Stammlers vom sozialpsychologischen

Standpunkte aus betrachtet“, Zeitschrift für die gesamte

Staatswissenschaft, Bd. 58, S. 699-719.

竹下 賢 1990: 「シュタムラーの歴史法学批判」, 今井弘道編『法思

想史的地平』, 昭和堂, 109-139.

田中成明ほか 1997 : 『法思想史』(第2版), 有斐閣.

Tönnies, F. 1905: „Zur naturwissenschaftlichen Gesellschaftslehre.

Zweiter Abschnitt“, Jahrbuch für Gesetzgebung, Verwaltung und

Volkswirtschaft im Deutschen Reich [Schmollers Jb] Bd. 29,

─ 88 ─

(201)

いるにもかかわらず、日本政府が認定していない事例に多数出会っ

た。その多くは私達の調査から数年~十数年を経て日本政府にも認

定されたが、一部は未認定のまま中国で死去した。本稿はこうした

事例の二世も分析対象に含める。

*「母は中国政府に残留孤児と認定されたが、日本政府はまだ認

定してくれない。母は、日本敗戦時に着ていた子供用の和服を、

今も大事に保管している。1999 年、日本の厚生省の職員が調

査に来た。母は路上に捨てられた時、幼かったので、その日付

が正確にはわからない。でも職員が詳しく聞くので、特定の日

付を答えた。それで逆に疑われたのかも知れない。母は一日も

早い日本への帰国切望しているが、どうすれば良いのか、誰も

方法を教えてくれない。とても困っている」

「父は千葉県出身の残留孤児で、中国の公安局も正式に認めて

いるが、日本政府がどうしても認めてくれない。父は中国名も

なく、ずっと日本の名前だけで生きてきた。父が持つ外国人居

留証には『日本国籍』と明記されている。父と私は納得できず、

日本のボランティアに調べてもらった。すると、父の偽物が既

に日本政府に認定され、それで父が認定されないことがわかっ

た。日本政府は誤りを認め、調査をやり直し、父を認定すべき

だ。中国の外事弁公室の職員も、日本政府が調査に来ないので

不審に思っている」

「父は 1999 年頃、養母(対象者の養祖母)に残留孤児だと証言

してもらおうとしたが、養母はもう重病で何も語れず、2000

年に死去した。父と私は3人の証人を捜し出し、2006 年によ

うやくハルビンの外事弁公室に行き、日本の厚生省職員に証言

資料を渡した。厚生省職員の面接はすごく長く、5 ~ 6 時間も

かかった。父は緊張して、うまく話せなかった。とても細かい

ことまで聞かれ、徹底的に疑われた。今、認定の返事を待って

いる。ここまで辿り着くのに 7 年かかった」

 第3に、「残留日本人の二世」の定義は、さらに複雑だ。

 まず前述の公的な定義に従えば、両親の双方が日本国籍者でなけ

れば、残留日本人ではないことになる。両親の一方が日本人、他方

が中国人の場合、二世になる。しかしこうした定義の根拠は明確で

はない。1985 年以降、日本の国籍法は男女両系で、一方の親が日

本人であれば、子供に日本国籍を認めている。それ以前も、男系の

親の子供には日本国籍を認めていた。したがって戦後、両親の一方

を日本国民として中国で生まれた子供も「残留日本人(一世)」の

範疇に含め、公的支援の対象とする可能性が検討されるべきではな

かったか。実際、同じ残留婦人の子供の中で年長者(日本人前夫と

の子供)は「残留日本人」、年少者(中国人の夫との子供)は「二世」

となった場合、その行政的な区別にどれほどの現実的意義があるか

は疑問である。ちなみに「フィリピン残留日本人」と呼ばれている

人々は、ほとんどが父親は日本人、母親はフィリピン人である。

*「母が日本への帰国手続きをすると、兄は母の前夫(日本人)

の子供で残留孤児だから帰国できるが、私は父(中国人)の子

供で帰国できないと言われた。それまで兄自身、私と同じ父母

の子供とずっと思い込んで育ってきた。私は、今も信じられな

い。母が残留婦人ということは、私も兄も小さい頃から知って

いた。私が小さい頃、父が死に、母も病弱だったので、兄は重

年の日中国交正常化を機に、日本政府は中国に取り残された日本人

の日本国籍を一律に剥奪し、中国籍とみなす行政措置を執った。そ

こで中国に取り残された日本人の「帰国」は、中国籍者の「新規入

国」へと一変し、厳格な入国管理の壁に阻まれ、大幅に遅延するこ

ととなった。

 日本政府のこうした政策──正確には、相互承認によって初めて

成り立ち、原則として両属を許さない国家、および、国家間システ

ムによる「調整」──に基づき、残留日本人は創造された。この事

実認識は、残留日本人問題における戦後の日本政府の責任を明確に

する上で決定的な意義をもつ。

 またこれにより、1945 年、中国に置き去りにされた日本人(「未

帰還者」)は、その後、① 1972 年以前に日本に帰還した「引揚者」、

② 1972 年以前に中国で死去した「未帰還者(死者)」、③ 1972 年

以降まで中国で居住した「残留日本人」に分岐した。この分岐は、個々

の当事者の人生を根底的に規定した。

 しかしそれでも、これら三者の人生やその苦難に一定の共通性・

連続性があることもまた事実である。

 すなわちまず第1に、三者は、1972 年以降の日本政府の政策に

よる事後的な区分にすぎない。①の「引揚者」が日本に帰還し、②

の「未帰還者」が死去する以前、その中国での生活は、③の「残留

日本人」のそれと本質的に同じであった。なぜなら彼・彼女達はと

もに日本人の「未帰還者」だったからだ。少なくとも 1972 年以前

の中国での当事者の生活実態の考察において、三者の区分はあまり

意味がない。

 そこで本稿は、次のような事例も──その特殊性をふまえつつ─

─分析対象に含める。

 一つは、父母である日本人が 1972 年以前、対象者を中国に残し

たまま日本に引き揚げたケースである。

*「母は 1953 年春、父と私と弟を中国に残し、妊娠したまま日

本への引揚船に乗り、船中で妹を出産した。私は、母が日本に

帰った日のことを今も鮮明に覚えている。当時、大きな出来事

と思っていなかった。でも母が二度と戻って来ないとわかり、

私は何日も大暴れして散々泣いた。1968 年まで、父と母は手

紙の往来があった」

「母は 1958 年、兄を連れ、私と妹を中国に残して日本に引き

揚げた。母が帰る時、私は 7 歳でとても辛く、涙、涙で見送っ

た。母や兄とはその後も手紙のやりとりがあり、日中国交正常

化以降、兄は何度か中国を訪問してきた」

 もう一つは、父母である日本人が 1972 年以前、日本に帰国する

ことなく中国で死去したケースである。

*「母は中国に取り残され、日本への帰国を果たせないまま、

1964 年に中国で病死した。母は『墓石には日本人と刻み、い

つか遺骨を日本に届けてほしい』と遺言した」

 さて第2に、前述の日本政府による残留日本人の定義は一見、客

観的なものに見えるが、実際には施策の対象を限定するための排他

的基準にすぎない。また客観的事実がどうであれ、日本政府がそれ

を事実と認めなければ「残留日本人」にはなれない。

 しかし私達は中国での調査で、中国政府が残留日本人と認定して

─ 90 ─

(202)

 そして二世の最大の特徴は、その多様性にある。年齢も 30 歳代

から 70 歳代まで分散し、国籍・居住国も主なそれだけでも日本と

中国に大別される。学歴・職歴、日本語や中国語の能力も極めて多

様である。

 こうした多様な二世の生活・社会意識の実態をトータルに把握し

た研究は従来、極めて少なかった。二世に関する先行研究の大半は、

若年(学齢)で一世とともに日本に同伴帰国した二世の日本語教育・

アイデンティティ・逸脱行動等に関するそれである(3)。近年、張

龍龍氏が調査研究を行っている(4)が、総じてこの分野の研究は緒

に就いたばかりと言ってよい。

第1章 中国での生活史 ではまず、二世の中国での生活史を見ていこう。

 本章の分析に際し、調査対象者のうち、3 名を分析対象から除外

する。①中国在住の実母(中国人)が日本在住の残留孤児(本人の

継父)と再婚して一緒に渡日したケース、②中国在住の本人が日本

在住の残留婦人二世と結婚して渡日したケース、③留学生として渡

日し、日本で残留婦人二世と結婚したケースである。これらはいず

れも中国在住時、残留日本人の二世またはその配偶者としての生活

を経験していないからである。

第1節 出身階層と居住地

 さて、二世の多くは中国東北地方(黒竜江省・吉林省・遼寧省・

内蒙古自治区)に生まれた(表 1-1)。

 中国での生活は、その出身階層(両親の主な家計保持者の職業)

に基づき、大きく3つの類型に区分しうる(表 1-2・3)。

第1項 【農民出身層】

 第1の類型は【農民出身層】で、対象者の二世の 42.4%を占める。

両親はともに農民であることが多い。両親の一方が労働者(運輸・

建設・林業等)の場合も、農業との兼業である。

 出生地は黒竜江省等の農村(方正県・通河県・延寿県・依安県・

五常県・東寧県等)が多く、1952 年以前に生まれた年長者が多数

を占める。それは日本敗戦時、母が 13 歳以上の残留婦人で黒竜江

省等の農村を逃避行中、見ず知らずの中国人男性に妻として引き取

られたケースが多いからである。引き取った父の多くは貧困のため

に結婚できなかった農民であった。

*「母の前夫(日本人)は徴兵され、戦死したらしい。母は日本

敗戦時、黒竜江省の農村を 1 カ月も徒歩で流浪した。そして貧

農だった父に引き取られ、再婚した」

 「母は 16 歳で満州開拓団として中国に渡り、翌年に日本敗戦

を迎え、餓死寸前で黒竜江省方正県を流浪していた。父が『食

料があるから、うちに来い』と連れ帰った」

 「日本敗戦時、母は 21 歳で黒竜江省東寧県を逃避行の途上、ど

うしようもなく、生きるために貧農の父と結婚した」

 母を引き取った父が重婚だったケースもある。この場合、父は農

村居住者の中では比較的裕福であった。

*「母は大学生で満州開拓団を見学するために 50 人の団体で黒

竜江省方正県に来て、日本敗戦に遭遇した。混乱の中、母は列

労働に耐え、一家を養ってくれた。今になって、こんな形で別

れるとは思いもしなかった」

「母の前夫(日本人)が戦死し、日本敗戦後、母は父と再婚した。

行き倒れになった母を父が助けたそうだ。ただ私は 1946 年生

まれで、父(中国人)の実子か、前夫(日本人)の実子か正確

にはわからない。父は私を実子だと言っていた。家では、この

話題は口にできなかった。行政的には、私は残留婦人の二世と

いうことになっている」

 本稿は、両親がともに日本国籍者であった残留日本人について別

稿を用意することを前提として、両親の一方が日本国籍者であった

人々のみを「二世」とする一般的な──ただし重大な疑義のある─

─定義にひとまずは従う。

 また「二世」には、次のような事例もある。

 一つは、実父母はともに中国人だが離婚し、該当者の親権を母が

もち、後に母が残留日本人の男性と再婚したケースである。この場

合、該当者は母が再婚するまで残留日本人の二世ではなかったこと

になる。本稿は、母の再婚以降の事象に限ってこの事例を分析対象

に含める(2)。

 いま一つは、残留日本人の母が日本に帰国する際、中国人の父と

離婚し、該当者は父とともに中国に残ったケースである。これも、

本稿の分析対象に含める。

*「母は日本に帰国する際、中国人の父と離婚した。母は子供の

半数を連れて日本に帰り、私達は父の許に残った。私は今更、

日本に行く気はない。それでも私の実母が日本人で、私が日本

人の子供(二世)であるのは間違いない」

 なお私達は調査の過程で、次のような事例にも出会った。これら

は、本稿の分析対象から除外する。ただし当該事例は二世との類似

点・共通点も多く、残留日本人・二世の地域組織にも参加している。

そこで必要に応じて補注で触れることとする。

*「祖父(中国人)は清朝末に国費で明治大学に留学し、日本で

祖母(日本人)と結婚した。祖父は中国に帰国したが、結婚時

の約束で、子供は日本の曾祖父母の許に送り、日本で育てた。

私の母も日本で育ち、日本で高校を卒業した。その後、母は上

海に住む伯母(母の姉)を訪ねた時、ちょうど日中戦争が始ま

り、日本に戻れなくなった。母は中国にとどまり、伯母の紹介

で父(中国人)と結婚した」

「中国人の父が戦前、日本国籍の台湾人の母と日本で結婚した。

父と母は左派思想をもち、1952 年に中国に渡り、ずっと中国

で暮らしてきた」

 さて残留日本人の二世の総数は、いうまでもなく不明である。

 そもそも残留日本人(一世)の人数も定かではない。日本政府は

一応、7000 人弱の一世(残留孤児 2600 人弱、残留婦人 4200 人弱)

を認定している。しかし前述の如く、認定される以前に中国で死去

した一世も多い。今なお認定されていない一世もいる。そして日中

両国政府は、二世の人数を把握していない。ただ、あくまで一応の

目安として日本政府に認定された一世に、平均 4 人の子供がいると

仮定すれば、二世は少なくとも 2 万 8000 人程度いることになる。

─ 91 ─

いるにもかかわらず、日本政府が認定していない事例に多数出会っ

た。その多くは私達の調査から数年~十数年を経て日本政府にも認

定されたが、一部は未認定のまま中国で死去した。本稿はこうした

事例の二世も分析対象に含める。

*「母は中国政府に残留孤児と認定されたが、日本政府はまだ認

定してくれない。母は、日本敗戦時に着ていた子供用の和服を、

今も大事に保管している。1999 年、日本の厚生省の職員が調

査に来た。母は路上に捨てられた時、幼かったので、その日付

が正確にはわからない。でも職員が詳しく聞くので、特定の日

付を答えた。それで逆に疑われたのかも知れない。母は一日も

早い日本への帰国切望しているが、どうすれば良いのか、誰も

方法を教えてくれない。とても困っている」

「父は千葉県出身の残留孤児で、中国の公安局も正式に認めて

いるが、日本政府がどうしても認めてくれない。父は中国名も

なく、ずっと日本の名前だけで生きてきた。父が持つ外国人居

留証には『日本国籍』と明記されている。父と私は納得できず、

日本のボランティアに調べてもらった。すると、父の偽物が既

に日本政府に認定され、それで父が認定されないことがわかっ

た。日本政府は誤りを認め、調査をやり直し、父を認定すべき

だ。中国の外事弁公室の職員も、日本政府が調査に来ないので

不審に思っている」

「父は 1999 年頃、養母(対象者の養祖母)に残留孤児だと証言

してもらおうとしたが、養母はもう重病で何も語れず、2000

年に死去した。父と私は3人の証人を捜し出し、2006 年によ

うやくハルビンの外事弁公室に行き、日本の厚生省職員に証言

資料を渡した。厚生省職員の面接はすごく長く、5 ~ 6 時間も

かかった。父は緊張して、うまく話せなかった。とても細かい

ことまで聞かれ、徹底的に疑われた。今、認定の返事を待って

いる。ここまで辿り着くのに 7 年かかった」

 第3に、「残留日本人の二世」の定義は、さらに複雑だ。

 まず前述の公的な定義に従えば、両親の双方が日本国籍者でなけ

れば、残留日本人ではないことになる。両親の一方が日本人、他方

が中国人の場合、二世になる。しかしこうした定義の根拠は明確で

はない。1985 年以降、日本の国籍法は男女両系で、一方の親が日

本人であれば、子供に日本国籍を認めている。それ以前も、男系の

親の子供には日本国籍を認めていた。したがって戦後、両親の一方

を日本国民として中国で生まれた子供も「残留日本人(一世)」の

範疇に含め、公的支援の対象とする可能性が検討されるべきではな

かったか。実際、同じ残留婦人の子供の中で年長者(日本人前夫と

の子供)は「残留日本人」、年少者(中国人の夫との子供)は「二世」

となった場合、その行政的な区別にどれほどの現実的意義があるか

は疑問である。ちなみに「フィリピン残留日本人」と呼ばれている

人々は、ほとんどが父親は日本人、母親はフィリピン人である。

*「母が日本への帰国手続きをすると、兄は母の前夫(日本人)

の子供で残留孤児だから帰国できるが、私は父(中国人)の子

供で帰国できないと言われた。それまで兄自身、私と同じ父母

の子供とずっと思い込んで育ってきた。私は、今も信じられな

い。母が残留婦人ということは、私も兄も小さい頃から知って

いた。私が小さい頃、父が死に、母も病弱だったので、兄は重

年の日中国交正常化を機に、日本政府は中国に取り残された日本人

の日本国籍を一律に剥奪し、中国籍とみなす行政措置を執った。そ

こで中国に取り残された日本人の「帰国」は、中国籍者の「新規入

国」へと一変し、厳格な入国管理の壁に阻まれ、大幅に遅延するこ

ととなった。

 日本政府のこうした政策──正確には、相互承認によって初めて

成り立ち、原則として両属を許さない国家、および、国家間システ

ムによる「調整」──に基づき、残留日本人は創造された。この事

実認識は、残留日本人問題における戦後の日本政府の責任を明確に

する上で決定的な意義をもつ。

 またこれにより、1945 年、中国に置き去りにされた日本人(「未

帰還者」)は、その後、① 1972 年以前に日本に帰還した「引揚者」、

② 1972 年以前に中国で死去した「未帰還者(死者)」、③ 1972 年

以降まで中国で居住した「残留日本人」に分岐した。この分岐は、個々

の当事者の人生を根底的に規定した。

 しかしそれでも、これら三者の人生やその苦難に一定の共通性・

連続性があることもまた事実である。

 すなわちまず第1に、三者は、1972 年以降の日本政府の政策に

よる事後的な区分にすぎない。①の「引揚者」が日本に帰還し、②

の「未帰還者」が死去する以前、その中国での生活は、③の「残留

日本人」のそれと本質的に同じであった。なぜなら彼・彼女達はと

もに日本人の「未帰還者」だったからだ。少なくとも 1972 年以前

の中国での当事者の生活実態の考察において、三者の区分はあまり

意味がない。

 そこで本稿は、次のような事例も──その特殊性をふまえつつ─

─分析対象に含める。

 一つは、父母である日本人が 1972 年以前、対象者を中国に残し

たまま日本に引き揚げたケースである。

*「母は 1953 年春、父と私と弟を中国に残し、妊娠したまま日

本への引揚船に乗り、船中で妹を出産した。私は、母が日本に

帰った日のことを今も鮮明に覚えている。当時、大きな出来事

と思っていなかった。でも母が二度と戻って来ないとわかり、

私は何日も大暴れして散々泣いた。1968 年まで、父と母は手

紙の往来があった」

「母は 1958 年、兄を連れ、私と妹を中国に残して日本に引き

揚げた。母が帰る時、私は 7 歳でとても辛く、涙、涙で見送っ

た。母や兄とはその後も手紙のやりとりがあり、日中国交正常

化以降、兄は何度か中国を訪問してきた」

 もう一つは、父母である日本人が 1972 年以前、日本に帰国する

ことなく中国で死去したケースである。

*「母は中国に取り残され、日本への帰国を果たせないまま、

1964 年に中国で病死した。母は『墓石には日本人と刻み、い

つか遺骨を日本に届けてほしい』と遺言した」

 さて第2に、前述の日本政府による残留日本人の定義は一見、客

観的なものに見えるが、実際には施策の対象を限定するための排他

的基準にすぎない。また客観的事実がどうであれ、日本政府がそれ

を事実と認めなければ「残留日本人」にはなれない。

 しかし私達は中国での調査で、中国政府が残留日本人と認定して

─ 90 ─

(203)

出獄したが、まもなく事故死してしまった」

 「1960 年代、3 年連続の飢饉で餓死寸前だった。母は家族の食

糧を確保するため、自分は塩水を飲んで堪えた。父は出稼ぎに

出たので、母と子供 2 人で山菜を採り、かろうじて生き抜いた。

飢えて身動きできなくなったこともある。中学は 2 年で中退し

た」

 「母が癌になり、私は小学 4 年で退学した。中国語の読み書き

は住所、生年月日しかできない。母の治療費のため、うちは困

窮した。1964 年に母が、翌年に父が死んだ。私は服はいつも

泥だらけでボロボロで着替えもなく、暖かい靴もなかった。ご

車で逃げようとしたが、軍人が汽車に乗せてくれず、流浪した。

食糧もなく、11 月には寒くて路上で瀕死状態になった。その時、

父が家に迎え入れ、母は父に感謝して再婚した。父は重婚で、

妻に子供ができなかったこともあり、母を引き取った。だから

私には実母と養母がいる」

 「日本敗戦時、母は黒竜江省通河県でリンパ結核になり、父の

家に助けを求めて来た。その後、父と再婚した。父は妻がいて

重婚だった。だから私は母以外に養母もいる」

 【農民出身層】は、総じて貧困な子供時代を送った。父が貧農の

場合はもとより、当初は裕福だった場合も、1945 年以降、土地改

革等で貧困化したからだ。生活環境も劣悪で、「2歳の時、農村で

医療条件が悪く、医療ミスで手に障害を負った」ケースもある。【農

民出身者】は特に年長者を中心に不就学(28.2%)・小学校卒(20.5%)

等、低学歴者が多く、中国語の読み書きができない非識字者も少な

くない。

*「1958 年、地主だった父が罪を問われて入獄した。1962 年に

母が心臓病で倒れ、私は小学 2 年で退学した。1964 年、父は

出身階層

都市

中間

労働

農民 総計

黒竜江省

吉林省

遼寧省

内蒙古

その他

4

-

10

6

1

4

5

12

2

-

-

-

-

-

-

8

5

22

8

1

小計 21 23 - 44

黒竜江省

吉林省

遼寧省

内蒙古

その他

3

-

-

1

-

2

2

-

-

1

26

8

2

2

1

31

10

2

3

2

小計 4 5 39 48

計 25 28 39 92

吉林省

遼寧省

その他

-

2

5

2

3

-

-

-

-

2

5

5

小計 7 5 - 12

黒竜江省

吉林省

遼寧省

内蒙古

その他

1

-

-

-

-

-

-

1

-

-

5

5

1

3

1

6

5

2

3

1

小計 1 1 15 17

計 8 6 15 29

総計 33 34 54 121

出身階層

都市

中間

労働

農民 総計

1965~84年

1953~64年

1946~52年

15

4

6

10

12

6

7

10

22

32

26

34

男性

女性

12

13

10

18

23

16

45

47

大専卒以上

高校・中専卒

中学卒

小学卒

不就学

在学中

10

9

4

-

-

2

4

15

6

2

1

-

2

8

9

8

11

1

16

32

19

10

12

3

都市中間層

労働者層

農民層

中国で不就労

18

11

-

2

7

21

1

2

5

11

35

1

30

43

36

5

小計 25 28 39 92

1965~84年

1953~64年

1946~52年

1942~45年

2

2

3

1

1

3

1

1

2

10

1

2

5

15

5

4

男性

女性

4

4

3

3

4

11

11

18

大専卒以上

高校・中専卒

中学卒

小学卒

不就学

3

5

-

-

-

-

4

2

-

-

1

2

6

-

6

4

11

8

-

6

職 都市中間層 6 1 2 9

業 労働者層

農民層

3

-

6

-

5

13

14

13

小計 8 6 15 29

総計 33 34 54 121

表 1-1 出身階層別出身地 表 1-2 出身階層別・中国での生活 (1)

注:出身階層 : 父母 ( 主な家計保持者 ) の職業。  都市中間層 : 専門・管理・事務・技能工。資料 : 実態調査より作成。

注:出身階層 : 父母 ( 主な家計保持者 ) の職業。  都市中間層 : 専門・管理・事務・技能工。  最終学歴 : 中国在住時の最終学歴。  職業 : 中国在住時の職業。複数回答。資料 : 実態調査より作成。

─ 92 ─

(204)

とても豊かな生活だった。子供を都市の小学校に入れるため、

牛と羊を売ってハイラル市でマンションを買った。母(残留孤

児)と妻が交代で、子供の面倒を見るために草原とハイラル市

の間を往来した」

 しかし大多数の【農民出身層】は貧しく、特に改革開放政策が本

格化した 1992 年以降まで中国にとどまっていた二世には、出稼ぎ

に出たり、露店等の零細自営業で生活したケースも多い。

*「農民で、地元で煉瓦工場の労働者もしていたが、1997 年に

51 歳でリストラされ、非正規雇用になった。冬は仕事がなく、

経済的にとても苦しい」

 「農民だったが、1992 年にハイラル市に出稼ぎに来て今はボイ

ラー労働者をしている。毎日 3 トンの石炭をくべ、2000 平米

以上の建物の暖房を担当している。夏は暖房機のメンテナンス

と風呂の給湯だ。私は農民出身だし、小学校中退だから、こん

な仕事しかできないのは当然だ」

 「畑は妻に任せ、私はあちこちの建設現場に出稼ぎに行ってい

る。出稼ぎの仕事は安定せず、月に 3 日しか働けない時もある。

冬は仕事がなく、一年に働ける期間は半年以下だ。仕事がある

時はきつく、給料も安く、朝 6 時半から夜 7 時までと労働時

間は長い」

 【農民出身層】の結婚は、過半数が 1965 ~ 76 年と早い。これは

年長者の多さに加え、82.1%が 15 ~ 24 歳と結婚年齢が低いためだ。

特に女性には「十数人家族で幼い弟妹も多くて大変なので、15 歳

で結婚した」等の声も聞かれる。配偶者も農民であることが多い。

 そして子供は3人以上が 30.8%、2人が 79.5%と比較的多い。

1980 年以降、中国では一人っ子政策が本格化したが、【農民出身層】

は多くがそれ以前に結婚していた。また農村では、一人っ子政策の

実施が必ずしも貫徹しなかった。

第2項 【都市中間出身層】

 第2は【都市中間出身層】で、対象者の二世の 27.2%を占める。

両親の主な家計保持者が、専門職・管理職・事務職等である。具体

的には、医師・看護師・教師・保育士・技師・獣医等の専門職、企

業の管理職や公務員、経理・会計・人事・総務・秘書等の事務職、

そして一部だが都市自営業も見られる。両親とも都市中間層のケー

スが約半数を占め、それ以外は父親が都市中間層、母親は労働者ま

たは主婦である。

 【都市中間出身層】の多くは、瀋陽市・撫順市・丹東市など遼寧

省等の都市で、1965 年以降に生まれた年少者である。それは、祖

父母(日本人)が日本敗戦時、中国の都市に住み、日本に引き揚げ

る際に信頼できる都市中間層の中国人の知己に、年少の残留孤児を

託したケースが多いからだ。

*「日本敗戦時、祖父母(日本人)が瀋陽市にいて、親友の中国

人に父を託して日本に引き揚げた。当時、父は生まれたばかり

で、引揚船に乗せると途中で死ぬ可能性が高かった。それで父

の兄・姉だけを連れて引き揚げた」

 【都市中間出身層】の二世は、大専卒以上が 40%、高校・中専卒

飯がない日も多かった」

 【農民出身層】の 89.7% は、自らも農民として就労してきた。

 ごく一部だが、農民として成功した事例もある。

*「農業をしながら亜麻工場で労働者をしていたが、生産請負制

の導入を機に専業農民となり、成功した。私の住む黒竜江省方

正県では日本人が稲作の技術指導をして、農業収入がとてもよ

かった。私は 1000 ムーの土地の使用権をもち、50 ~ 60 人の

人を雇って地主のような暮らしをしていた。その後、土地の使

用権を国家に返したが、補償金をもらったので初期の『万元戸

(金持ち)』だった」

 「内蒙古自治区フロンボイルの広い草原で羊 500 頭、馬 20 頭、

牛 170 頭を飼い、それ以外に羊 300 頭を知り合いに預けていた。

出身階層

都市

中間

労働

農民 計

1965~76年

1977~89年

1990~2000年

2

8

8

5

12

5

20

13

4

27

33

17

25~34歳

15~24歳

11

7

16

6

5

32

32

45

都市中間

労働者

農民

他・無職

14

4

1

1

3

18

-

1

2

8

29

-

19

30

30

2

中国で未婚 7 6 2 15

3人以上

2人

1人

なし

-

6

11

8

3

2

16

7

12

19

5

3

15

27

32

18

小計 25 28 39 92

1965~76年

1977~89年

1990~2001年

1

5

2

2

2

2

6

7

2

9

14

6

25~34歳

16~24歳

7

1

5

1

1

14

13

16

都市中間

労働者

農民

他・無職

5

3

-

-

2

6

-

-

-

7

11

1

7

16

11

1

3人以上

2人

1人

なし

-

1

7

-

-

1

5

-

5

8

1

1

5

10

13

1

小計 8 6 15 29

計 33 34 54 121

表 1-3 出身階層別・中国での生活 (2)

注:出身階層 : 父母 ( 主な家計保持者 ) の職業。  都市中間層 : 専門・管理・事務・技能工。  配偶者職 : 中国在住時の配偶者の職業。複数回答。資料 : 実態調査より作成。

─ 93 ─

出獄したが、まもなく事故死してしまった」

 「1960 年代、3 年連続の飢饉で餓死寸前だった。母は家族の食

糧を確保するため、自分は塩水を飲んで堪えた。父は出稼ぎに

出たので、母と子供 2 人で山菜を採り、かろうじて生き抜いた。

飢えて身動きできなくなったこともある。中学は 2 年で中退し

た」

 「母が癌になり、私は小学 4 年で退学した。中国語の読み書き

は住所、生年月日しかできない。母の治療費のため、うちは困

窮した。1964 年に母が、翌年に父が死んだ。私は服はいつも

泥だらけでボロボロで着替えもなく、暖かい靴もなかった。ご

車で逃げようとしたが、軍人が汽車に乗せてくれず、流浪した。

食糧もなく、11 月には寒くて路上で瀕死状態になった。その時、

父が家に迎え入れ、母は父に感謝して再婚した。父は重婚で、

妻に子供ができなかったこともあり、母を引き取った。だから

私には実母と養母がいる」

 「日本敗戦時、母は黒竜江省通河県でリンパ結核になり、父の

家に助けを求めて来た。その後、父と再婚した。父は妻がいて

重婚だった。だから私は母以外に養母もいる」

 【農民出身層】は、総じて貧困な子供時代を送った。父が貧農の

場合はもとより、当初は裕福だった場合も、1945 年以降、土地改

革等で貧困化したからだ。生活環境も劣悪で、「2歳の時、農村で

医療条件が悪く、医療ミスで手に障害を負った」ケースもある。【農

民出身者】は特に年長者を中心に不就学(28.2%)・小学校卒(20.5%)

等、低学歴者が多く、中国語の読み書きができない非識字者も少な

くない。

*「1958 年、地主だった父が罪を問われて入獄した。1962 年に

母が心臓病で倒れ、私は小学 2 年で退学した。1964 年、父は

出身階層

都市

中間

労働

農民 総計

黒竜江省

吉林省

遼寧省

内蒙古

その他

4

-

10

6

1

4

5

12

2

-

-

-

-

-

-

8

5

22

8

1

小計 21 23 - 44

黒竜江省

吉林省

遼寧省

内蒙古

その他

3

-

-

1

-

2

2

-

-

1

26

8

2

2

1

31

10

2

3

2

小計 4 5 39 48

計 25 28 39 92

吉林省

遼寧省

その他

-

2

5

2

3

-

-

-

-

2

5

5

小計 7 5 - 12

黒竜江省

吉林省

遼寧省

内蒙古

その他

1

-

-

-

-

-

-

1

-

-

5

5

1

3

1

6

5

2

3

1

小計 1 1 15 17

計 8 6 15 29

総計 33 34 54 121

出身階層

都市

中間

労働

農民 総計

1965~84年

1953~64年

1946~52年

15

4

6

10

12

6

7

10

22

32

26

34

男性

女性

12

13

10

18

23

16

45

47

大専卒以上

高校・中専卒

中学卒

小学卒

不就学

在学中

10

9

4

-

-

2

4

15

6

2

1

-

2

8

9

8

11

1

16

32

19

10

12

3

都市中間層

労働者層

農民層

中国で不就労

18

11

-

2

7

21

1

2

5

11

35

1

30

43

36

5

小計 25 28 39 92

1965~84年

1953~64年

1946~52年

1942~45年

2

2

3

1

1

3

1

1

2

10

1

2

5

15

5

4

男性

女性

4

4

3

3

4

11

11

18

大専卒以上

高校・中専卒

中学卒

小学卒

不就学

3

5

-

-

-

-

4

2

-

-

1

2

6

-

6

4

11

8

-

6

職 都市中間層 6 1 2 9

業 労働者層

農民層

3

-

6

-

5

13

14

13

小計 8 6 15 29

総計 33 34 54 121

表 1-1 出身階層別出身地 表 1-2 出身階層別・中国での生活 (1)

注:出身階層 : 父母 ( 主な家計保持者 ) の職業。  都市中間層 : 専門・管理・事務・技能工。資料 : 実態調査より作成。

注:出身階層 : 父母 ( 主な家計保持者 ) の職業。  都市中間層 : 専門・管理・事務・技能工。  最終学歴 : 中国在住時の最終学歴。  職業 : 中国在住時の職業。複数回答。資料 : 実態調査より作成。

─ 92 ─

(205)

父母が、鉄道・港湾・運輸・炭鉱・建築・食品加工・皮革加工・販

売等の労働者、または軍人である。父母とも労働者のケースと、父

親が労働者、母親は専業主婦のそれが拮抗している。

 【労働者出身層】の子供時代の生活水準は、【農民出身層】と【都

市中間出身層】の概ね中位に位置するが、一部には父が傷病のため、

貧困な世帯も見られた。

*「父は軍人だったが傷病兵で全然働けなくなった。母が1人で

雑貨の小売店を自営し、父の傷病兵年金と合わせ、8 人の子供

をやっと育てた」

 「父は商店労働者だが病気で退職し、給料が 8 割カットされた。

母も商店労働者で韮・落花生等を売っていたが、生活は貧しく

ギリギリだった」

 【労働者出身層】の出生地は、瀋陽市・撫順市・大連市など、遼

寧省等の都市が多い。

 年齢・学歴は、【農民出身層】と【都市中間出身層】の概ね中位

に位置している。その中では、年長者ほど低学歴である。

 そして 75%が自らも、建築・機械製造・綿製造・紡織・食品加工・

ゴム製造・食堂給仕・衣服販売・暖房サービス等の労働者として就

労してきた。大半は正規雇用だが、1953 年以前に出生した年長者の、

しかも一部の貧困世帯出身者では一貫して非正規雇用だったケース

も見られる。

*「1953 年に生まれ、私が中学 3 年の時、父が病気になって困

窮した。私は中学校を退学して弟妹の面倒と家事手伝いをし

た。その後、1985 年に暖房設備会社に非正規雇用で就職した。

1988 年にその会社が倒産したので、ゴム製造工の非正規雇用

になった」

 「1947 年に生まれ、家が貧しかったので学校に行ったことがな

い。子供の頃、左足を骨折して医者に行くと右足を治療され、

逆に右足が悪くなった。母(残留婦人)が中国語があまりでき

なかったので、こんな間違いが起きた。足が悪いので非正規雇

用の雑役の仕事しかできなかった」

 【労働者出身層】の年長者は、同世代の【都市中間出身層】と同様、

1960 年代初頭の大飢饉、および、1966 ~ 77 年の文化大革命の影

響を受けた。

*「子供時代、食糧難で飢えた。山で山菜を採り、飢えを凌いだ。

学校の放課後は石炭拾いに行った。小学 1 年で文化大革命が始

まり、あまり学校に行けず、家で弟の面倒をみていた。中学卒

業後、同級生 40 人と一緒に農村へ下郷した。1978 年、都市に

戻って紡織工場に就職した」

 また 1970 年代以降に生まれた若年層は、中学・高校等の卒業が

改革開放政策の本格化の時期と重なり、正規雇用での就職が困難

だったケースも少なくない。

*「1975 年に生まれ、高卒後、就職がなく、学校の実習助手と

して臨時雇された。1 年後、衣服販売の自営を始めた」

 「1972 年に生まれ、高卒後、なかなか就職できず、数え切れな

いほど様々な非正規雇用を転々としてきた。縫製工や衣服の販

売店員が多い。今は友人が経営する結婚衣装のレンタル会社で

が 36%と総じて高学歴である。そして 72% は、都市中間層の職歴

を歩んできた。教師・看護師・通訳・獣医・技師等の専門職、会計・

人事・総務等の事務職、税務署や裁判所事務等の公務員である。

 ただし、こうした【都市中間出身層】の中で 1960 年代以前に生

まれた相対的な年長者は、「大躍進政策(1958 ~ 62 年)」とその破綻、

「文化大革命(1966 ~ 77 年)」等の政治的混乱に翻弄され、農村へ

の移動や単純労働への従事を余儀なくされたケースも少なくない。

*「1968 年、17 歳で『知識青年上山下郷』運動で四川省の農村

に行き、農作業を手伝った。3 年後に成都市で専門学校に入り

直して看護婦になった。その後も勉強して 1984 年に心電図技

師になった」

 「小学校卒業生 140 名位の中で、中学合格者は 10 名未満で、

その中に私もいた。しかしまもなく文化大革命が始まり、ほと

んど勉強できなかった。中学卒業後、農村の店員になった。文

化大革命が終わったので 1976 年に中専に入り、教師になった。

今は副校長だ」

 また改革開放が本格化した 1992 年以降まで中国にとどまった【都

市中間出身層】には、勤務先の国有企業の倒産やリストラに遭遇し、

零細な都市自営業や非正規雇用の労働者に転職したケースも見られ

る。若年の【都市中間出身層】では大学等を卒業しても安定した就

職ができなかったケースも散見される。

*「毛皮工場の経理事務職だったが、1994 年にホテルに転職し、

ロシアとの貿易を担当した。しかし当時、その貿易は既に破綻

状態だった。それで商品管理の部署に回され、2005 年には早

期退職させられた。その後は医薬品販売の代理店を自営してい

る。今、薬屋の数が非常に多いからあまり利益が出ない。悪性

の価格戦争で、倒産が頻発している」

 「家電販売の国有企業で係長になった。でも不景気で 1997 年

にリストラされ、その後はクリーニング店の自営をしている。

今、仕事はきつく、労働時間は長い」

 「大専で工学を学んで国有の自動車企業の技師になった。でも

1992 年、勤務先が倒産してリストラされ、その後はデパート

で化粧品販売の非正規雇用だ」

 「大専を卒業したが就職がなく、非正規雇用で書店に務めた。

その後、姉も勤務先の国有企業が倒産してリストラされたので

一緒に機械部品販売の自営を始めた。それもうまくいかず、今

は無職だ」

 ただしその一方、若年で高学歴の【都市中間出身層】では、専門

職・管理職として安定した生活を営むニュー・リッチも一部で生ま

れている。

 そして【都市中間出身層】は、結婚が 1977 年以降と遅く、中国

在住時には未婚だったケースも多い。これは、若年層の多さに加え、

結婚年齢が 25 歳以上と遅いケースが多かったためである。配偶者

も過半数が都市中間層である。子供の人数は少なく、1 人または「い

ない」というケースが 76%を占める。

第3項 【労働者出身層】

 第3は【労働者出身層】で、対象者の二世の 30.4%を占める。

─ 94 ─

(206)

小括

 以上、二世とその配偶者の中国在住時の生活史を分析してきた。

簡単に総括しよう。

 まず第1に、二世は両親の職業階層の違いに基づき、【農民出身

層】・【都市中間出身層】・【労働者出身層】の3類型に区分し得た。

そしてそれぞれ出生年や出生地が異なっていた。この相違は、日本

敗戦時、両親である残留日本人(一世)が中国人に引き取られた経

過の違いに起因する ( 5)。その意味で、戦前の日本の「満州」支配

における地域空間構造が生み出した相違といってよい。

 第2に、3類型の二世は、その後、それぞれ大きく異なる生活史

を辿ってきた。すなわち3類型は単に出生年・出生地・両親の職業

階層の相違にとどまらず、その後の二世自身の学歴・職歴・経済状

況・家族形成を根底的に規定した。これは一般的な階層の世代的再

生産に加え、都市と農村の戸籍制度や経済格差、職業・居住地の選

択の自由の欠如等、戦後の中国に特有の社会構造に基礎づけられた

特徴といえよう。

 しかし第3に、こうした類型の違いを問わず、二世はいずれも、

戦後の中国の政治的混乱に人生を翻弄されてきた。

 1950 年代~ 60 年代初頭の大躍進政策の破綻と大飢饉は、年長者

が多い【農民出身層】に特に深刻な危機をもたらした。その後の「知

識青年上山下郷」や文化大革命は、【都市中間出身層】や【労働者

出身層】の年長者を農村に移動させ、学業・職業キャリアに深刻な

影響・断絶性を刻印した。

 また 1990 年代に本格化した改革開放政策は、都市・農村を問わ

ず貧富の差を一挙に拡張した。ごく一部の【農民出身層】の「万元

戸」や【都市中間出身層】・【労働者出身層】の高学歴の若年層を中

心とするニュー・リッチを除けば、いずれの類型においても大多数

の二世の生活は不安定化していった。

 一人っ子政策の影響も、都市を中心に顕著にみられた。

 そして第4に、3類型とそれに基づく生活史の相違自体は、残留

日本人の二世に固有ではなく、同世代の中国人民衆に共通する特徴

であった。戦後の中国の政治的混乱に翻弄されたことも、同様であ

る。そこで二世の配偶者もまた類似した生活史を歩み、多くは同じ

出身階層の二世と出会い、結婚していた。

第2節 中国での差別経験

 次に、二世が中国社会で遭遇した差別について見ていこう。

 対象者の二世の 55.4%は、「日本人」としての差別・迫害を経験

した(表 1-4)。

 二世が経験した差別は、残留日本人(一世)と比べれば、あまり

深刻ではない。特に差別が深刻化したのは、1966 ~ 77 年の文化大

革命時代であり、この時期に物心がついていた年長の二世は、当時

の父母の深刻な差別を目の当たりにしていた。

*「父は迫害され、暴行を受けて何度も入院した。私は、ひどい

迫害は受けたことがない。二世は一世よりましだ」

 「文化大革命時代、父は暴行を受け、腰を痛めてしまった。反

省文を書くよう強要されたが、父は非識字なので私が代筆した。

何度も書き直しを命じられ、すごく悩んだ」

 「母は文化大革命時代、スパイと決めつけられ、助産婦の仕事

ができなくなった。母は精神的に追い詰められ、精神病院に入

非正規雇用だが、何の保証もなく不安定だ」

 改革開放が本格化した 1992 年以降は、1950 ~ 60 年代に生まれ、

正規雇用だった年長者でも勤務先の倒産やリストラが相次ぎ、非正

規雇用に転じたケースが多い。

*「1954 年に生まれ、中学の用務員をしていたが、2004 年の不

況で多くの職員がリストラされた。解雇されると、給料が全く

出ない。だから私は病気を口実に自主退職した。そうすれば退

職後も年金が出るからだ。当時、夫の会社も倒産に瀕し、月収

は 7 元になってしまった」

 「1964 年に生まれ、ゴム加工の労働者だったが、2004 年に工

場長の着服事件があり、勤務先が倒産した。退職金も年金もな

い。今は、車の部品販売の非正規雇用で糊口を凌いでいる。汚

職をした工場長は公安局の局長に手を回し、逮捕されなかった。

悔しくてたまらない」

 ただし一方、【労働者出身層】の中でも大卒等、高学歴者は正規

雇用の教師・技師・管理職など都市中間職に就き、生活は比較的安

定していた。

 【労働者出身層】の結婚の時期や年齢、子供の人数は、【農民出身層】

と【都市中間出身層】の概ね中位に位置している。配偶者も 75%

が労働者である。

第4節 二世の配偶者

 さて、二世の配偶者の中国での生活実態を見ると、結婚前も含め、

二世と類似した特徴が見て取れる。

 すなわち両親の職業階層に基づき、【農民出身層】・【都市中間出

身層】・【労働者出身層】の3つの類型があり、それぞれ基本的な生

活史は大きく異なっている。

 まず【農民出身層】は、父母とも農民で、黒竜江省・吉林省等の

農村出身者が多い。学歴は相対的に低く、非識字者も少なくない。

農民として就労し、改革開放の本格化以降、出稼ぎに出た者もいる。

比較的早く、しかも若年で農民の配偶者と結婚し、子供の人数は 2

人以上と多い。

 これに対し、【都市中間出身層】は、父親が行政幹部・技師・銀行員・

経理事務職・教師等であり、母親は医師・教師等の専門職や事務職

または専業主婦が多い。出身地は都市が多い。学歴は大学・大専・

高校・中専卒と高く、卒業後は獣医・技師・舞台俳優・行政管理職等、

多くが都市中間職に従事してきた。ただし年長者には、大躍進政策

とその破綻、文化大革命等の影響を受け、農村への下放や単純労働

への従事を余儀なくされたケースも少なくない。結婚は遅く、配偶

者も都市中間職、子供の人数は1人であることが多い。

 そして【労働者出身層】の配偶者は、父親が製紙・縫製・運送等

の労働者、母親が労働者または専業主婦であった。遼寧省や吉林省

の都市に生まれ、学歴は【農民出身層】と【都市中間出身層】の概

ね中位に位置し、卒業後は炭鉱・建築・機械製造等の労働者として

働いてきた。改革開放の本格化以降、リストラに遭遇して不安定な

生活を余儀なくされたケースもある。配偶者も労働者、子供は 1 人

であることが多い。

─ 95 ─

父母が、鉄道・港湾・運輸・炭鉱・建築・食品加工・皮革加工・販

売等の労働者、または軍人である。父母とも労働者のケースと、父

親が労働者、母親は専業主婦のそれが拮抗している。

 【労働者出身層】の子供時代の生活水準は、【農民出身層】と【都

市中間出身層】の概ね中位に位置するが、一部には父が傷病のため、

貧困な世帯も見られた。

*「父は軍人だったが傷病兵で全然働けなくなった。母が1人で

雑貨の小売店を自営し、父の傷病兵年金と合わせ、8 人の子供

をやっと育てた」

 「父は商店労働者だが病気で退職し、給料が 8 割カットされた。

母も商店労働者で韮・落花生等を売っていたが、生活は貧しく

ギリギリだった」

 【労働者出身層】の出生地は、瀋陽市・撫順市・大連市など、遼

寧省等の都市が多い。

 年齢・学歴は、【農民出身層】と【都市中間出身層】の概ね中位

に位置している。その中では、年長者ほど低学歴である。

 そして 75%が自らも、建築・機械製造・綿製造・紡織・食品加工・

ゴム製造・食堂給仕・衣服販売・暖房サービス等の労働者として就

労してきた。大半は正規雇用だが、1953 年以前に出生した年長者の、

しかも一部の貧困世帯出身者では一貫して非正規雇用だったケース

も見られる。

*「1953 年に生まれ、私が中学 3 年の時、父が病気になって困

窮した。私は中学校を退学して弟妹の面倒と家事手伝いをし

た。その後、1985 年に暖房設備会社に非正規雇用で就職した。

1988 年にその会社が倒産したので、ゴム製造工の非正規雇用

になった」

 「1947 年に生まれ、家が貧しかったので学校に行ったことがな

い。子供の頃、左足を骨折して医者に行くと右足を治療され、

逆に右足が悪くなった。母(残留婦人)が中国語があまりでき

なかったので、こんな間違いが起きた。足が悪いので非正規雇

用の雑役の仕事しかできなかった」

 【労働者出身層】の年長者は、同世代の【都市中間出身層】と同様、

1960 年代初頭の大飢饉、および、1966 ~ 77 年の文化大革命の影

響を受けた。

*「子供時代、食糧難で飢えた。山で山菜を採り、飢えを凌いだ。

学校の放課後は石炭拾いに行った。小学 1 年で文化大革命が始

まり、あまり学校に行けず、家で弟の面倒をみていた。中学卒

業後、同級生 40 人と一緒に農村へ下郷した。1978 年、都市に

戻って紡織工場に就職した」

 また 1970 年代以降に生まれた若年層は、中学・高校等の卒業が

改革開放政策の本格化の時期と重なり、正規雇用での就職が困難

だったケースも少なくない。

*「1975 年に生まれ、高卒後、就職がなく、学校の実習助手と

して臨時雇された。1 年後、衣服販売の自営を始めた」

 「1972 年に生まれ、高卒後、なかなか就職できず、数え切れな

いほど様々な非正規雇用を転々としてきた。縫製工や衣服の販

売店員が多い。今は友人が経営する結婚衣装のレンタル会社で

が 36%と総じて高学歴である。そして 72% は、都市中間層の職歴

を歩んできた。教師・看護師・通訳・獣医・技師等の専門職、会計・

人事・総務等の事務職、税務署や裁判所事務等の公務員である。

 ただし、こうした【都市中間出身層】の中で 1960 年代以前に生

まれた相対的な年長者は、「大躍進政策(1958 ~ 62 年)」とその破綻、

「文化大革命(1966 ~ 77 年)」等の政治的混乱に翻弄され、農村へ

の移動や単純労働への従事を余儀なくされたケースも少なくない。

*「1968 年、17 歳で『知識青年上山下郷』運動で四川省の農村

に行き、農作業を手伝った。3 年後に成都市で専門学校に入り

直して看護婦になった。その後も勉強して 1984 年に心電図技

師になった」

 「小学校卒業生 140 名位の中で、中学合格者は 10 名未満で、

その中に私もいた。しかしまもなく文化大革命が始まり、ほと

んど勉強できなかった。中学卒業後、農村の店員になった。文

化大革命が終わったので 1976 年に中専に入り、教師になった。

今は副校長だ」

 また改革開放が本格化した 1992 年以降まで中国にとどまった【都

市中間出身層】には、勤務先の国有企業の倒産やリストラに遭遇し、

零細な都市自営業や非正規雇用の労働者に転職したケースも見られ

る。若年の【都市中間出身層】では大学等を卒業しても安定した就

職ができなかったケースも散見される。

*「毛皮工場の経理事務職だったが、1994 年にホテルに転職し、

ロシアとの貿易を担当した。しかし当時、その貿易は既に破綻

状態だった。それで商品管理の部署に回され、2005 年には早

期退職させられた。その後は医薬品販売の代理店を自営してい

る。今、薬屋の数が非常に多いからあまり利益が出ない。悪性

の価格戦争で、倒産が頻発している」

 「家電販売の国有企業で係長になった。でも不景気で 1997 年

にリストラされ、その後はクリーニング店の自営をしている。

今、仕事はきつく、労働時間は長い」

 「大専で工学を学んで国有の自動車企業の技師になった。でも

1992 年、勤務先が倒産してリストラされ、その後はデパート

で化粧品販売の非正規雇用だ」

 「大専を卒業したが就職がなく、非正規雇用で書店に務めた。

その後、姉も勤務先の国有企業が倒産してリストラされたので

一緒に機械部品販売の自営を始めた。それもうまくいかず、今

は無職だ」

 ただしその一方、若年で高学歴の【都市中間出身層】では、専門

職・管理職として安定した生活を営むニュー・リッチも一部で生ま

れている。

 そして【都市中間出身層】は、結婚が 1977 年以降と遅く、中国

在住時には未婚だったケースも多い。これは、若年層の多さに加え、

結婚年齢が 25 歳以上と遅いケースが多かったためである。配偶者

も過半数が都市中間層である。子供の人数は少なく、1 人または「い

ない」というケースが 76%を占める。

第3項 【労働者出身層】

 第3は【労働者出身層】で、対象者の二世の 30.4%を占める。

─ 94 ─

(207)

る。それらを考えあわせ、母が日本人だと確信した。小学校の

授業で『日本鬼子』という言葉が出ると、皆の視線が私に集まっ

た」

 「子供時代は『偽魔子』『中国人の骨、日本人の肉』といじめら

れた。子供時代から母に『日本人だ』と聞かされていたから反

論もできず、悔しかった」

 第2は、進学・就職・結婚等での差別・不利益である。

*「中学では成績がよかったが、当時は成分(出身)重視の時代

で、私はいい高校に入れなかった。悔しかった。また卒業後、

辺境の国境地帯に支援活動に行こうと思ったが、スパイと疑わ

れ、行かせてもらえなかった」

 「昇進が遅れた。中学教師時代に二度、ラジオ局の記者への転

職の話があったが、採用されなかった。当時、私は不採用の理

由を知らなかったが、後に『母が日本人だからだ』と人事担当

者の友人から聞かされた」

 「日本人の子供なので政治活動に参加できず、いくら仕事をよ

くしても管理職にはなれなかった。結婚も、条件のよい男性と

はできなかった。兄も空軍の試験に合格したが、政治審査で落

とされた」

 「私と弟は良い高校に推薦されたが、入学は許可されなかった。

弟は中学を中退させられ牛飼いに、妹は小学校 4 年生で中退さ

せられ、煉瓦工場労働者になった。私は 1946 年生まれで、年

齢的には残留孤児とほぼ同じだ。中国では残留孤児と同様、政

治的に差別された」

 第3に、共産党・共青団等の政治組織への加入も認められなかっ

た。これは、職業的昇進の上でも大きなハンディとなった。

*「日本人の子供なので、共産党への入党は許されなかった。だ

から昇進もできなかった」

 「私は勉強はいつも一番だったが、母が日本人なので共青団・

共産党には入れなかった。それで進学でも不利になり、公安局・

警察・軍隊への就職も認められなかった」

第2項 年少者

 一方、年少者では差別されたケースは少ない。特に 1961 年以降

に出生した二世では、86.8%が被差別経験がない。

 年少の二世には、文化大革命が終結する 1977 年の時点で、親が

残留日本人であることを知らなかったケースも少なくない。

*「中国で差別されたことはない。私自身、1985 年に母が肉親

捜しの訪日調査に行くまで、母が残留孤児と知らなかった。母

が訪日調査から帰国して大評判になり、初めて私も実感した」

 「文化大革命が終わった時、私は小学生で小さかったし、何よ

り 1997 年まで、私は母が日本人と知らなかった。母が近所や

親戚の人から残留孤児として証言を集め、郷政府に申し出た。

私にとっては寝耳に水で、最初は全く信じられなかった。母は

それまで私達に何も言わなかった」

 ただし、年少者でも特別の社会的地位にある場合、差別はなくて

も出自を隠蔽しているケースはある。

院したり、二度も自殺未遂をした」

 「文化大革命時代、父はスパイとみなされて投獄され、母は肺

病なのに玉蜀黍の収穫の重労働を強制されて吐血して死んでし

まった」

 差別に遭遇した二世は【農民出身層】に多く、【都市中間出身層】

で少ない。しかしこれは、出身階層の違いというより、年齢の相違

に起因する。すなわち【農民出身者】で被差別体験が多いのは、年

長者が多いからである。現にいずれの出身階層においても年長者ほ

ど被差別体験が多い。年長者の中ではむしろ「農村なので差別が少

なかった」との言及も多数聞かれる。

 そこで以下、年齢(出生年)の違いに注目して、二世が遭遇した

差別・迫害の実態を見ていこう。

第1項 年長者

 差別に遭遇した二世は、1960 年以前に生まれた年長者に集中し

ている。特に 1954 年以前の出生者は、就学・就職期を「文化大革

命(1966 ~ 1977 年)」の渦中ですごし、87.8% が被差別体験をもつ。

 まず第1に彼・彼女達は子供時代、「小日本鬼子」等と呼ばれ、

いじめられた。

*「小学校時代、まわりの子と喧嘩になると『小日本鬼子』と

罵られた。帰宅して父に聞き、母が日本人だと初めて知った。

ショックを受け、母を『なぜ中国人ではないのか』と責めたこ

ともある。私は学校で友達からも異様な目で見られ、本当に寂

しく悔しかった」

 「子供時代、『小日本鬼子』と呼ばれ、唾を吐きかけられたが、

自分が日本人かどうかよくわからなかった。ただ母の中国語の

アクセントが他の人と少し違うことに気づいていた。また 5 ~

6 歳の頃、日本人の集団引揚があったが、日本人を満載したト

ラックを手を振って見送り、その後、母が泣いていた記憶もあ

公式

差別

いじ

なし 計

出身

階層

都市中間

労働者

農民

9

12

20

7

11

17

18

11

12

25

28

39

出生

1954年以前

1955~60年

1961年以降

36

5

-

21

9

5

5

2

33

41

13

38

小計 41 35 41 92

出身

階層

都市中間

労働者

農民

3

4

1

-

-

-

5

2

14

8

6

15

出生

1954年以前

1955~60年

1961年以降

6

2

-

-

-

-

9

3

9

14

5

9

小計 8 - 21 29

計 49 35 62 121

表 1-4 中国でのいじめ・差別・迫害への言及 ( 複数回答 )

注 : 公式差別・いじめは、言及があった事例数のみを記入。資料 : 実態調査より作成。

─ 96 ─

(208)

受けたのは、政府関係の管理職や教師など先進的な思想の人だ。

私は母のことで差別されたことはない」

 したがってまた、差別・迫害に遭遇した二世に対し、同情・救援

の手を差し伸べてくれた中国人もいた。

*「私は海外関係が理由で高校入学を拒まれた。本当に悔しかっ

た。でも中学の先生が家まで慰めに来て、中専(師範学校)に

入って教師になればいいと勧めてくれた」

 「私は友達の人脈を使って炭鉱労働者の職につくことができた。

文化大革命時代も、庇ってくれる友達はいた」

 そして二世に対する差別は、1972 年の日中国交正常化、および、

1977 年の文化大革命の終結とともに解消されていった。

*「文化大革命が終わった 1977 年、日本人でも追及されなくなり、

共産党にも入党でき、幹部に登用された」

 「1970 年代末には、差別もなくなってきた。私は 1980 年代に

は共産党への入党も認められた。その頃には、資本家も地主も

入党を認められるようになっていた」

 なおその後、二世の一部はむしろ政策的な優遇も受けた。

*「私は外国人子女特別待遇政策で労働者として就職した」

  「母は中国籍を取得した。もし母が中国籍を取得していなけれ

ば、私達はもっとよい待遇を享受できただろう。中国籍でない

人に良い待遇が提供されることになったからだ」

第4項 配偶者の被差別体験

 以上の二世の差別・迫害にみられる特徴は、配偶者の被差別経験

からも裏付けられる。

 すなわちまず、1961 年以降に生まれた年少の配偶者は、二世と

の結婚後も含め、被差別経験がない。また配偶者自身、結婚時、相

手が残留日本人の二世であることを気にしなかった。

*「結婚後に夫が日本人二世だと知ったが、何も思わなかった。

気にしたことがない。差別されたこともない」

 「妻と知り合った時から、姑が日本人と知っていた。でも、全

然気にならなかった。周囲に差別する人もいなかった」

 「私は夫との結婚を親に反対されたが、それは夫が残留孤児二

世だからではない。夫の親が貧しかったからだ。夫のことで差

別や影響を受けたことはない」

 これに対し、1960 年以前、特に 1954 年以前に生まれた年長の配

偶者の一部は、二世との結婚に際して反対や差別を経験した。

 ただし配偶者の被差別経験は、二世に比べれば少ない。なぜなら

まず配偶者には当然、二世が経験した「子供時代のいじめ」は無縁

である。むしろ「周囲に残留孤児が多く、小学校の同級生にも残留

孤児がいた。今から思えば恥ずかしいが、残留孤児をいじめたこと

もある」と語る配偶者もいる。また結婚以前も配偶者は残留日本人

の縁者ではないので、それを口実とした差別も受けていない。そし

て配偶者は自らの意思・判断で二世と結婚し、たとえ結婚時に一定

の不利益があっても、そのことをあらかじめ覚悟・認識していた場

合が多い。

*「差別されたことは一度もない。ただ、妻の勤務先の航空会社

には、私の父が残留孤児とは知らせていない。海外に親戚がい

ると、政治審査で昇進に多少影響があるかも知れないからだ」

第3項 戦後中国における差別の特徴

 そしてここで改めて留意すべきことは、文化大革命時代の差別や

迫害が、残留日本人や二世にのみ向けられたものではなかったこと

である。「黒五類(地主・富農・反革命分子・破壊分子・右派)」等

に指定された中国人も、差別・迫害された。管理職や知識人も、批

判・迫害された。文化大革命で差別・迫害され、甚大な被害を被っ

た人々のほとんどはいうまでもなく中国人である。残留日本人であ

ることは、迫害・差別の無数にある口実の一つにすぎなかった。

 そこで二世が受けた迫害も、必ずしも両親が残留日本人であった

こととは限らない。

*「祖母(父の母)は、父が文化大革命で迫害されたのは母が日

本人だからだと母を責め、父母は離婚した。しかし実際は母の

せいではなく、工場内部の人間関係・政治的対立のせいだった。

それは後に父の档案から明らかになった」

 「私の一家は文化大革命時代、農村に 7 年間も下放され、農村

で『都会人』といじめられた。ただしそれは、母が日本人だか

らではない。父が管理職だったことが主な理由だ。当時は残留

日本人だけでなく、『黒五類』は皆、打倒の対象だった。だか

ら私達も迫害された」

 「父が昔、国民党の軍医だったので、私は大学に進学できなかっ

た。軍隊も入れず、入党も遅れた。母(残留孤児)は医師で、

周囲から高く評価されていた。母が原因で差別されたことはな

い」

 「文化大革命で迫害されたのは、母が日本人であることより、

祖父(父の父)が資本家で父の出身が悪く、しかも父が管理職

だったからだ。父は農村に下放され、21 年間の労働改造を強

制された。私の身上調査書、反省文は1kg 以上ある。文化大

革命が終わり、私の身上調査書は目の前で焼却された。3,4 頁

しか残されなかった」

 父母が残留日本人であることが差別の口実の一つであったとして

も、他の口実も併存していたケースも少なくない。

*「文化大革命当時、父が生産大隊共産党支部の書記だったの

で『走資派』とみなされた。しかも母は日本人だ。だから私は

1971 年に軍への入隊を政治審査で許可されなかった。1973 年

に入党申請をしたが、これも不許可だ。父母のことがなければ、

私はもっと出世していただろう」

 「文化大革命で迫害されたきっかけは、兄が村の汚職を告発し

たことだ。それで母が日本人ということを口実にして、うちの

一家は迫害された。母は暴行され、毎日隣人に監視された。兄

が上部組織に陳情して迫害は止んだが、私達は村に住めず、引っ

越すしかなかった」

 逆に父母のいずれかが残留日本人でも、他方の出自が「貧農」等

であれば、迫害されなかった事例もある。

*「父が貧農なので、母が日本人でも差別されなかった。被害を

─ 97 ─

る。それらを考えあわせ、母が日本人だと確信した。小学校の

授業で『日本鬼子』という言葉が出ると、皆の視線が私に集まっ

た」

 「子供時代は『偽魔子』『中国人の骨、日本人の肉』といじめら

れた。子供時代から母に『日本人だ』と聞かされていたから反

論もできず、悔しかった」

 第2は、進学・就職・結婚等での差別・不利益である。

*「中学では成績がよかったが、当時は成分(出身)重視の時代

で、私はいい高校に入れなかった。悔しかった。また卒業後、

辺境の国境地帯に支援活動に行こうと思ったが、スパイと疑わ

れ、行かせてもらえなかった」

 「昇進が遅れた。中学教師時代に二度、ラジオ局の記者への転

職の話があったが、採用されなかった。当時、私は不採用の理

由を知らなかったが、後に『母が日本人だからだ』と人事担当

者の友人から聞かされた」

 「日本人の子供なので政治活動に参加できず、いくら仕事をよ

くしても管理職にはなれなかった。結婚も、条件のよい男性と

はできなかった。兄も空軍の試験に合格したが、政治審査で落

とされた」

 「私と弟は良い高校に推薦されたが、入学は許可されなかった。

弟は中学を中退させられ牛飼いに、妹は小学校 4 年生で中退さ

せられ、煉瓦工場労働者になった。私は 1946 年生まれで、年

齢的には残留孤児とほぼ同じだ。中国では残留孤児と同様、政

治的に差別された」

 第3に、共産党・共青団等の政治組織への加入も認められなかっ

た。これは、職業的昇進の上でも大きなハンディとなった。

*「日本人の子供なので、共産党への入党は許されなかった。だ

から昇進もできなかった」

 「私は勉強はいつも一番だったが、母が日本人なので共青団・

共産党には入れなかった。それで進学でも不利になり、公安局・

警察・軍隊への就職も認められなかった」

第2項 年少者

 一方、年少者では差別されたケースは少ない。特に 1961 年以降

に出生した二世では、86.8%が被差別経験がない。

 年少の二世には、文化大革命が終結する 1977 年の時点で、親が

残留日本人であることを知らなかったケースも少なくない。

*「中国で差別されたことはない。私自身、1985 年に母が肉親

捜しの訪日調査に行くまで、母が残留孤児と知らなかった。母

が訪日調査から帰国して大評判になり、初めて私も実感した」

 「文化大革命が終わった時、私は小学生で小さかったし、何よ

り 1997 年まで、私は母が日本人と知らなかった。母が近所や

親戚の人から残留孤児として証言を集め、郷政府に申し出た。

私にとっては寝耳に水で、最初は全く信じられなかった。母は

それまで私達に何も言わなかった」

 ただし、年少者でも特別の社会的地位にある場合、差別はなくて

も出自を隠蔽しているケースはある。

院したり、二度も自殺未遂をした」

 「文化大革命時代、父はスパイとみなされて投獄され、母は肺

病なのに玉蜀黍の収穫の重労働を強制されて吐血して死んでし

まった」

 差別に遭遇した二世は【農民出身層】に多く、【都市中間出身層】

で少ない。しかしこれは、出身階層の違いというより、年齢の相違

に起因する。すなわち【農民出身者】で被差別体験が多いのは、年

長者が多いからである。現にいずれの出身階層においても年長者ほ

ど被差別体験が多い。年長者の中ではむしろ「農村なので差別が少

なかった」との言及も多数聞かれる。

 そこで以下、年齢(出生年)の違いに注目して、二世が遭遇した

差別・迫害の実態を見ていこう。

第1項 年長者

 差別に遭遇した二世は、1960 年以前に生まれた年長者に集中し

ている。特に 1954 年以前の出生者は、就学・就職期を「文化大革

命(1966 ~ 1977 年)」の渦中ですごし、87.8% が被差別体験をもつ。

 まず第1に彼・彼女達は子供時代、「小日本鬼子」等と呼ばれ、

いじめられた。

*「小学校時代、まわりの子と喧嘩になると『小日本鬼子』と

罵られた。帰宅して父に聞き、母が日本人だと初めて知った。

ショックを受け、母を『なぜ中国人ではないのか』と責めたこ

ともある。私は学校で友達からも異様な目で見られ、本当に寂

しく悔しかった」

 「子供時代、『小日本鬼子』と呼ばれ、唾を吐きかけられたが、

自分が日本人かどうかよくわからなかった。ただ母の中国語の

アクセントが他の人と少し違うことに気づいていた。また 5 ~

6 歳の頃、日本人の集団引揚があったが、日本人を満載したト

ラックを手を振って見送り、その後、母が泣いていた記憶もあ

公式

差別

いじ

なし 計

出身

階層

都市中間

労働者

農民

9

12

20

7

11

17

18

11

12

25

28

39

出生

1954年以前

1955~60年

1961年以降

36

5

-

21

9

5

5

2

33

41

13

38

小計 41 35 41 92

出身

階層

都市中間

労働者

農民

3

4

1

-

-

-

5

2

14

8

6

15

出生

1954年以前

1955~60年

1961年以降

6

2

-

-

-

-

9

3

9

14

5

9

小計 8 - 21 29

計 49 35 62 121

表 1-4 中国でのいじめ・差別・迫害への言及 ( 複数回答 )

注 : 公式差別・いじめは、言及があった事例数のみを記入。資料 : 実態調査より作成。

─ 96 ─

(209)

は、日本の侵略戦争・植民地支配の影響の残滓と解釈し得る。しか

しその後の進学・就職・結婚、さらに社会的地位に多大な影響を与

える政治組織(共産党等)への加入に関するフォーマルな差別は、

ポスト・コロニアルの中国の国家・社会が生み出した独自の問題で

あった。しかもそれは血統・出自(親の属性)を口実とした政治的

差別であり、そこに戦後の中国社会の固有の矛盾が見いだせる。

 そこで第3に、戦後の中国社会で出自に基づく差別・迫害のター

ゲットにされたのは、残留日本人やその二世だけではなかった。二

世においても、親の一方が残留日本人であることだけでなく、他方

の出自が差別の口実にされた事例も少なくなかった。逆に他方の親

の出自が良ければ、残留日本人の二世でも差別を免れた事例もある。

配偶者もまた、その親の出自によって差別・迫害を経験した。そし

てこうした差別・迫害が最も激烈化したのは文化大革命の時期であ

り、それによる被害者のほとんどは残留日本人や二世ではなく、中

国人の民衆であった。その意味で、二世が中国で遭遇した差別・迫

害は二世に固有の体験というより、ポスト・コロニアルの中国民衆

が遭遇した政治的苦難の一環であったといえよう。このような政治

的差別は、現在の中国ではほとんど見られなくなっている。しかし

若年の二世の中でも「妻が航空会社に勤務」など特殊な社会的地位

にある場合、今もなお政治的リスクへの警戒は継続している。

 そして第4に、こうした差別の存在にもかかわらず、またはそれ

ゆえにこそ、二世は中国人民衆とともに生きてきた。進学・就職で

不利益を受けた際に支援してくれた中国人もいた。すべての年長の

二世が差別に遭遇したわけでもなく、周囲の人々との信頼関係に

よって差別されなかったケースもある。配偶者は二世を差別せず、

時には不利益を覚悟の上で二世と結婚した。一部には配偶者も出自

に基づいて差別されていたがゆえに二世と出会い、結婚することに

なった事例もあった。

第2章 日本への永住帰国 1972 年の日中国交正常化以降、本稿の対象者の 73.9% は日本に

永住帰国した。

 本章では、永住帰国の実態を見ていこう。

 対象者の二世が永住帰国した年次は、中国での出身階層や生活実

態、本人の意思とは直接には関係がない。むしろ日本政府の帰国制

限政策によって大枠で規定された。

 まず日本政府は、残留日本人(一世)の永住帰国を厳しく制限した。

序章で述べた如く、1972 年の日中国交正常化を機に中国に住む残

留日本人の日本国籍を一律に剥奪し、その帰国に「外国人」として

の厳格な入国審査を課した。また日本にいる肉親の身元保証も求め

た。そこで残留日本人は、日本の肉親が見つからず、または見つかっ

ても肉親の身元保証が得られなければ、帰国できなくなった。この

帰国制限政策は後に徐々に緩和され、肉親以外の身元引受人(1985

年・身元引受人制度、1989 年・特別身元引受人制度)が確保でき

れば帰国が許可されることとなった。しかし身元引受人の確保も、

中国にいる残留日本人にとって容易ではなかった。

 しかも日本政府は、家族の同伴帰国にも厳しい制限を課した。

1972 年の日中国交正常化以降も、残留日本人(一世)の帰国に際

し、20 歳未満・未婚の子供(二世)のみに国費での同伴を許可した。

残留日本人の多くは、成人した二世を中国に残したまま日本に帰国

*「私は北京の科学院に勤めていたが、その職場では日本人二世

との結婚を認められない。それで瀋陽に転勤した」

 「妻が日本人の子なので、私は軍隊での昇進が難しかった。で

も私はもともと長く軍隊にいるつもりはなかったので、別に気

にしなかった」

 そして結婚後、年長の配偶者でも日本人との関係を口実とした差

別・迫害を経験しなかった人は、特に農村居住者には多い。

*「差別されたことはない。私の村には残留孤児が十数人いた。

私は 15 ~ 16 歳の時から妻の実母が日本人だと知っていた。

でも村では特別視・差別されることもなく、普通の中国人と同

じように扱われていた。だから私は妻と結婚しても被害もなく、

文化大革命でも迫害はなかった」

 一方、年長の配偶者も父母が「黒五類」等に指定された場合、結

婚以前に差別・迫害に遭遇した。むしろともに差別・迫害を経験す

る中で、二世と結婚した事例もある。

*「父が教師で地主出身だったので出自が悪く、私は大学進学の

チャンスもなかった。結婚も遅れた。文化大革命時代、確かに

残留日本人は迫害された。ただ当時は中国人もいろんな口実で

迫害されていた」

 「妻のことで差別されたことはない。しかし私の父は子供時代、

『満州国』の学校で教育を受けたので日本語が分かる。出身も

よくない。それで文化大革命時代、『当権派』というレッテル

を貼られてしまった。だから私は私と同様、出身のよくない妻

と知り合い、結婚した」

 「夫のことで差別されたことはない。ただし私の父は 1957 年、

右派のレッテルを貼られた。当時の反右派運動で、各職場から

一定数の右派を認定しなければならず、父は北京鉄道部幹部学

校の一番若い技師で、上司から『右派になってくれ』と頼まれ

た。父は政治と無縁な技術者だったが、やむなく承諾した。す

ると技師から労働者に降格され、給料も下げられ、北京からハ

ルビンに転勤させられた。ハルビンに着くと文化大革命が激化

し、私達一家はますます迫害された。私達の住宅は『造反派』

に占領された。冬はすごく寒く暖房もなく、本当に苦しかった」

小括

 以上、二世とその配偶者の中国での差別・迫害の体験を見てきた。

簡単に総括しよう。

 まず第1に、二世が遭遇した差別は、残留日本人(一世)のそれ

に比べれば、あくまで相対的にではあるが軽微だった。また差別・

迫害に遭遇した二世は、主に 1954 年以前に生まれた年長者に限ら

れていた。1961 年以降に生まれた年少の二世は、差別をほとんど

経験しなかった。これは、日中国交が正常化された 1972 年以降、

残留日本人や二世に対する差別が中国社会でほとんど見られなく

なっていたことを意味する。むしろ一部には残留日本人やその二世

に対する優遇政策も執られていた。

 とはいえ第2に、1954 年以前に生まれた年長の二世が、当事者

の人生にとって極めて深刻な影響をもつ差別・迫害を経験したこと

もまた事実である。その中で、子供時代のインフォーマルないじめ

─ 98 ─

(210)

同伴帰国を許可等)された。しかし二世の帰国制限は今も継続して

いる。

 なお 1990 年、日本の出入国管理法が改定され、「日系人」の渡

日が可能になった。そこで残留日本人の二世として帰国するより、

南米日系人等と同様、「日系人」として渡日する方が容易になり、

この在留資格で帰国する二世も増えた。

第1節 永住帰国の経過と困難

 さて、以上のような日本政府の帰国制限政策に基づき、対象者の

二世の帰国は総じて大幅に遅延した。また帰国時期は大きく2つの

時期に区分された(表 2-1)。

第1項 【早期帰国者】

 まず、1989 年以前に帰国した【早期帰国者】である。帰国した

二世の対象者の中で、17.6% と少ない。

 【早期帰国者】の過半数は帰国時、21 歳以下と若く、未婚で、両

親(一世)とともに国費で同伴帰国した。

 【早期帰国者】には、自らの帰国について「帰国手続きが困難だっ

た」との認識は比較的少ない(6)。ただし両親(一世)が身元保証

人の確保に苦労する様を目の当たりにしていた。

*「母は実父(対象者の祖父)が判明したが、祖父は経済力がな

く、母の帰国に反対し、身元保証人になってくれなかった。そ

れで母は長らく帰国できなかった」

 「母は肉親が見つからず、身元保証人が確保できなかった。そ

こで肉親捜しの訪日調査の時に名刺をもらった人等に、たくさ

ん手紙を書いて身元引受人になってくれるよう頼んだが、返事

は全くなかった」

 また【早期帰国者】には、年長の兄・姉が成人または既婚のため、

同伴帰国できなかったケースも多い。両親(一世)が既に高齢で日

本での就労が困難な場合、【早期帰国者】の二世自身が就学・進学

を諦めて就労し、兄・姉の身元保証人になり、私費帰国のための経

費を調達せざるを得なかった。

*「2 人の兄は既婚だったので同伴帰国が許可されなかった。私

達は先に帰国したが、母は兄達のことを思い、毎日泣いていた。

父は身元保証人に何度も頼みに行ったが、応じてもらえなかっ

た。やむなく私が専門学校への進学を諦めて働き、兄の身元保

証人になって呼び寄せ手続きをした」

 【早期帰国者】には一部だが、一世とともに親戚訪問で一時帰国し、

そのまま日本で永住に切り替えた事例もある。これは日本政府の政

策から逸脱しており、様々な軋轢を生み出した。

*「1978 年、母と私・妹の3人で親戚訪問で一時帰国した。で

も日本滞在中、母が病気になって伯父に経済的負担がかかり、

伯父は永住帰国の身元保証人にならないと言い出した。一時帰

国の際も、日本政府の許可がなかなか降りず、苦労した。中国

に戻ると、いつ日本に永住帰国できるかわからない。そこで私

達は、そのまま日本に永住することにした。日本の役所はあれ

これ文句をつけ、伯父との関係も悪化した。妹も中学に通えな

かった。でも最終的にボランティアの人が永住手続きをしてく

するか、または帰国を諦めるしかなかった。

*「1978 年頃、父は永住帰国を許可された。しかし子供の同伴

帰国が認められないので、帰国を断念するしかなかった。1995

年、父は日本に戻れないまま、中国で病死した」

 「母は 1919 年に山形で生まれ、外僑の証明書があり、延寿県

の外事事務所にも登録された正真正銘の日本人だ。母は日本に

帰国したがっていたが、子供を同伴できなかったので帰国を諦

めた。そして 1975 年、中国で死んでしまった」

 「1953 年、母は中国政府から呼び出され、日本政府からの帰国

通知を聞かされた。ただしそれには条件があり、中国人との子

供は連れて帰れないということだった。母は子供を置いて帰る

わけにいかず、泣いて諦めたそうだ。母がようやく親戚訪問で

一時帰国できたのは、1993 年だった」

 二世の同伴帰国制限の政策も、後にごく一部だが緩和(1994 年・

65 歳以上の一世の帰国に際し、成人の二世を1世帯に限って国費・

1978~

1989年

1990~

1997年

1998~

2008年

出身

階層

農民出身層

都市中間出身層

労働者出身層

8

4

21

7

13

7

2

6

28

17

23

帰国

年齢

10~21歳

22~39歳

40~64歳

7

5

-

4

20

17

-

3

12

11

28

29

帰国

未婚

既婚

8

4

6

35

-

15

14

54

一世

との

関係

同伴

呼び寄せ

一世帰国せず

8

4

-

15

26

-

1

9

5

24

39

5

一世

帰国

年次

1953~1988年

1989~1997年

1998~2001年

帰国せず

11

1

-

-

1

34

6

-

-

3

7

5

12

38

13

5

帰国

旅費

国費

私費

8

4

10

31

1

14

19

49

小計 12 41 15 68

出身

階層

農民出身層

都市中間出身層

労働者出身層

-

1

-

8

5

3

3

1

2

11

7

5

帰国

年齢

22~39歳

40~64歳

1

-

7

9

2

4

10

13

一世

関係

同伴

呼び寄せ

-

1

8

8

1

5

9

14

一世

帰国

年次

1953~1988年

1989~1997年

1998~2001年

1

-

-

2

14

-

-

3

3

3

17

3

帰国 国費 - 5 1 6

旅費 私費 1 11 5 17

小計 1 16 6 23

計 13 57 21 91

表 2-1 永住帰国 ( 帰国年次別・帰国者のみ )

資料 : 実態調査より作成。

─ 99 ─

は、日本の侵略戦争・植民地支配の影響の残滓と解釈し得る。しか

しその後の進学・就職・結婚、さらに社会的地位に多大な影響を与

える政治組織(共産党等)への加入に関するフォーマルな差別は、

ポスト・コロニアルの中国の国家・社会が生み出した独自の問題で

あった。しかもそれは血統・出自(親の属性)を口実とした政治的

差別であり、そこに戦後の中国社会の固有の矛盾が見いだせる。

 そこで第3に、戦後の中国社会で出自に基づく差別・迫害のター

ゲットにされたのは、残留日本人やその二世だけではなかった。二

世においても、親の一方が残留日本人であることだけでなく、他方

の出自が差別の口実にされた事例も少なくなかった。逆に他方の親

の出自が良ければ、残留日本人の二世でも差別を免れた事例もある。

配偶者もまた、その親の出自によって差別・迫害を経験した。そし

てこうした差別・迫害が最も激烈化したのは文化大革命の時期であ

り、それによる被害者のほとんどは残留日本人や二世ではなく、中

国人の民衆であった。その意味で、二世が中国で遭遇した差別・迫

害は二世に固有の体験というより、ポスト・コロニアルの中国民衆

が遭遇した政治的苦難の一環であったといえよう。このような政治

的差別は、現在の中国ではほとんど見られなくなっている。しかし

若年の二世の中でも「妻が航空会社に勤務」など特殊な社会的地位

にある場合、今もなお政治的リスクへの警戒は継続している。

 そして第4に、こうした差別の存在にもかかわらず、またはそれ

ゆえにこそ、二世は中国人民衆とともに生きてきた。進学・就職で

不利益を受けた際に支援してくれた中国人もいた。すべての年長の

二世が差別に遭遇したわけでもなく、周囲の人々との信頼関係に

よって差別されなかったケースもある。配偶者は二世を差別せず、

時には不利益を覚悟の上で二世と結婚した。一部には配偶者も出自

に基づいて差別されていたがゆえに二世と出会い、結婚することに

なった事例もあった。

第2章 日本への永住帰国 1972 年の日中国交正常化以降、本稿の対象者の 73.9% は日本に

永住帰国した。

 本章では、永住帰国の実態を見ていこう。

 対象者の二世が永住帰国した年次は、中国での出身階層や生活実

態、本人の意思とは直接には関係がない。むしろ日本政府の帰国制

限政策によって大枠で規定された。

 まず日本政府は、残留日本人(一世)の永住帰国を厳しく制限した。

序章で述べた如く、1972 年の日中国交正常化を機に中国に住む残

留日本人の日本国籍を一律に剥奪し、その帰国に「外国人」として

の厳格な入国審査を課した。また日本にいる肉親の身元保証も求め

た。そこで残留日本人は、日本の肉親が見つからず、または見つかっ

ても肉親の身元保証が得られなければ、帰国できなくなった。この

帰国制限政策は後に徐々に緩和され、肉親以外の身元引受人(1985

年・身元引受人制度、1989 年・特別身元引受人制度)が確保でき

れば帰国が許可されることとなった。しかし身元引受人の確保も、

中国にいる残留日本人にとって容易ではなかった。

 しかも日本政府は、家族の同伴帰国にも厳しい制限を課した。

1972 年の日中国交正常化以降も、残留日本人(一世)の帰国に際

し、20 歳未満・未婚の子供(二世)のみに国費での同伴を許可した。

残留日本人の多くは、成人した二世を中国に残したまま日本に帰国

*「私は北京の科学院に勤めていたが、その職場では日本人二世

との結婚を認められない。それで瀋陽に転勤した」

 「妻が日本人の子なので、私は軍隊での昇進が難しかった。で

も私はもともと長く軍隊にいるつもりはなかったので、別に気

にしなかった」

 そして結婚後、年長の配偶者でも日本人との関係を口実とした差

別・迫害を経験しなかった人は、特に農村居住者には多い。

*「差別されたことはない。私の村には残留孤児が十数人いた。

私は 15 ~ 16 歳の時から妻の実母が日本人だと知っていた。

でも村では特別視・差別されることもなく、普通の中国人と同

じように扱われていた。だから私は妻と結婚しても被害もなく、

文化大革命でも迫害はなかった」

 一方、年長の配偶者も父母が「黒五類」等に指定された場合、結

婚以前に差別・迫害に遭遇した。むしろともに差別・迫害を経験す

る中で、二世と結婚した事例もある。

*「父が教師で地主出身だったので出自が悪く、私は大学進学の

チャンスもなかった。結婚も遅れた。文化大革命時代、確かに

残留日本人は迫害された。ただ当時は中国人もいろんな口実で

迫害されていた」

 「妻のことで差別されたことはない。しかし私の父は子供時代、

『満州国』の学校で教育を受けたので日本語が分かる。出身も

よくない。それで文化大革命時代、『当権派』というレッテル

を貼られてしまった。だから私は私と同様、出身のよくない妻

と知り合い、結婚した」

 「夫のことで差別されたことはない。ただし私の父は 1957 年、

右派のレッテルを貼られた。当時の反右派運動で、各職場から

一定数の右派を認定しなければならず、父は北京鉄道部幹部学

校の一番若い技師で、上司から『右派になってくれ』と頼まれ

た。父は政治と無縁な技術者だったが、やむなく承諾した。す

ると技師から労働者に降格され、給料も下げられ、北京からハ

ルビンに転勤させられた。ハルビンに着くと文化大革命が激化

し、私達一家はますます迫害された。私達の住宅は『造反派』

に占領された。冬はすごく寒く暖房もなく、本当に苦しかった」

小括

 以上、二世とその配偶者の中国での差別・迫害の体験を見てきた。

簡単に総括しよう。

 まず第1に、二世が遭遇した差別は、残留日本人(一世)のそれ

に比べれば、あくまで相対的にではあるが軽微だった。また差別・

迫害に遭遇した二世は、主に 1954 年以前に生まれた年長者に限ら

れていた。1961 年以降に生まれた年少の二世は、差別をほとんど

経験しなかった。これは、日中国交が正常化された 1972 年以降、

残留日本人や二世に対する差別が中国社会でほとんど見られなく

なっていたことを意味する。むしろ一部には残留日本人やその二世

に対する優遇政策も執られていた。

 とはいえ第2に、1954 年以前に生まれた年長の二世が、当事者

の人生にとって極めて深刻な影響をもつ差別・迫害を経験したこと

もまた事実である。その中で、子供時代のインフォーマルないじめ

─ 98 ─

(211)

S会という団体を通して身元引受人を確保した。S会は一応、

残留孤児の帰国を支援するボランティアだが、実際は中小企業

の経営者が残留日本人の身元引受人になり、自分の会社で働か

せるための団体だ。私達一家も帰国して 3 日目から、ひどい低

賃金で長時間の重労働をさせられた。日本語も学べず、転職も

許されない。帰国後 1 年足らずでS会の役員と喧嘩になり、私

達は東京の厚生省に訴えに行った。厚生省は『ひとまず中国に

戻り、再度、帰国申請せよ』と言う。これは言い逃れだ。私達

は厚生省に何度も申請したが無視され、それでやむなくS会に

依頼したのだ。とても腹が立った。でも厚生省が『とにかく一

度中国に戻ってくれ。日本政府が責任をもって来日させるから』

と言うので、私達は中国に戻った。そして 1997 年、ようやく

国費で日本に永住帰国できた」

 「身元保証人が確保できず、何度手続きしても成功しなかった。

結局、ある焼鳥会社の社長が、私達の一家が帰国後、彼の工場

で働くことを条件に身元引受人になってくれた。彼は当時、中

国に労働力を募集に来ていた。こうして母は残留孤児として、

私達は残留孤児関係のビザではなく、(日系人として)就労ビ

ザで一緒に帰国した」

 両親(一世)と同伴で私費帰国した【後期帰国者】には、斡旋業

者に金銭を支払い、両親(一世)を含めた身元引受人を確保した事

例もある。斡旋業者への支払いは借金で賄われ、帰国後の就労で返

済された。ここでもまた残留日本人(一世)の帰国は、二世の帰国

後の就労を前提として初めて可能となった。

*「中国に身元引受人の斡旋業者がいて、日本の社長を紹介して

くれた。『日本で働ける人は来日できる』と言われた。労働力

になれない人は、来日できないということだ。当時、身元引受

人の仲介料として 3 万元かかった。すべての家財や住宅を売り

払っても足りず、あちこちから借金した。それでも手続きが成

功するまで 3 年間かかった」

 一方、【後期帰国者】で多数を占める私費・呼び寄せ帰国の場合、

先に帰国した両親(一世)、または前述の如く、年少の弟妹(【早期

帰国者】)が日本で就労して経済的に自立し、身元保証人にならね

ばならなかった。高齢の両親(一世)が無理に就労して健康を害し

たケースも少なくない。

*「先に帰国した父は、私達を日本に呼び寄せたかった。でも経

済的に自立しなければ身元保証人になれず、父は高齢を押して

働いた。父だけでなく、多くの残留孤児が無理をして働き、怪

我をしたり、病気で身体を壊した。日本政府は、子供を呼ぶ身

元保証人すら紹介してくれなかった」

 「1979 年、母は一人で先に帰国した。その後、1990 年に妹と

私を呼び寄せるまで、母はストレスで一杯だった。母はもとも

と身体が弱かったが、私達を呼び寄せるため無理をして働いた。

そして 50 数歳で脳出血で急死してしまった。日本政府は、な

ぜ子供の帰国を国費と私費に分けたのか。20 歳を過ぎ、結婚

したら、親の子供ではないと言うのか」

 先に帰国した両親(一世)や弟妹が日本で就労し、経済的に自立

れた。その後、中国に残っていた父と弟を呼び寄せようとした

が、これも大変だった。父が事故で片腕を失っていることを知

ると、身元引受人が、私達に黙って入国管理局に行き、辞退し

てしまったのだ。私達は、いくら待っても許可が出ないので入

国管理局に確かめ、初めて事情がわかった」

第2項 【後期帰国者】

 さて、いま一つは 1990 年以降まで帰国が遅延した【後期帰国者】

である。帰国した対象者の二世の 82.4% を占める。

 【後期帰国者】の多くは帰国時、22 歳以上で既婚であり、配偶者・

子供と一緒に帰国した。

 【後期帰国者】の場合、そもそも両親(一世)の帰国自体が 1989

年以降と【早期帰国者】よりも遅延していた。また【後期帰国者】

の中でも、両親(一世)の帰国が遅延するほど、対象者(二世)も

帰国が遅れ、帰国時に既に高齢化している。

 しかも【後期帰国者】の多くは、私費での呼び寄せ帰国であり、

両親(一世)以上に帰国が遅延した。最も帰国が遅延した対象者の

帰国年次は 2008 年、帰国時の最高齢は 64 歳である。

 なお【後期帰国者】の中でも一部、国費で両親(一世)と同伴帰

国したケースがある。これは主に前述の如く、1994 年以降、日本

政府が 65 歳以上の一世の帰国に際し、成人・既婚の二世の国費・

同伴帰国を一世帯に限り認めたためである。また両親(一世)の帰

国と同時に、二世が私費で帰国したケースもある。

 【後期帰国者】は、帰国手続きの困難さを痛感している。

 第1の困難は、身元保証人・身元引受人の確保であった。

 両親(一世)の身元保証人の確保が困難だった点は、【早期帰国者】

と同じである。

*「母は 1976 年に親戚訪問で一時帰国した時、日本の兄に永住

帰国の身元保証人を頼んだ。でも兄は、生活がギリギリで身元

保証人になるのは無理だと断った。そして兄は 1980 年に死去

した。母は身元保証人の当てがなくなり、帰国できなくなった。

とてもかわいそうだった」

 「父と私は 1978 年、親戚訪問で日本に一時帰国した。それ以来、

一日も早く日本に永住帰国したかったが、日本の親戚は皆、私

達の永住帰国に反対し、身元保証人になってくれなかった。そ

れで何年間も交渉し、1995 年にようやく伯母が身元保証人に

なってくれ、帰国が果たせた」

 「母は兄弟姉妹に身元保証人を頼んだが、いい返事が得られな

かった。母が親戚訪問で一時帰国した時、親戚もいろいろお金

を使って面倒を見たりして大変だったからだ」

 両親(一世)と同伴だが私費で帰国した【後期帰国者】には、自

ら(二世)が帰国後、労働力として雇用される契約を日本の中小企

業経営者と結び、両親(一世)も含めた身元引受を依頼した事例も

少なくない。

*「日本の祖父が判明したが、日本政府が祖父に息子 ( 一世 ) 一

家が来日したら生活費を負担しなければならないと伝えたの

で、祖父は身元保障人になってくれなかった。父は 1989 年か

ら日本の親戚に何度も電話したが、誰も身元保証人になってく

れず、そのうち祖父も他界してしまった。父と私は 1992 年、

─ 100 ─

(212)

*「母が身元保証人を確保できず、帰国できないので、私はまず

自分が日系人の労務ビザを取得して母を連れて帰国しようと

思った。その手続きに 2 年間かかったが、結局、ハルビン市政

府から不許可の通知が来た。その時、ハルビン市政府の職員が

『君は残留日本人の二世だから労務ビザでなくても日本に帰国

できるはずだ』と言った。それで 1992 年に再度、母の身元引

受人を確保して帰国申請をした。あの書類が足りない、この書

類を出せと、4 回ほど書類を提出させられ、結局 2 年間かかっ

た。帰国手続きは瀋陽でしなければならず、黒竜江省の農村か

らハルビン、そして瀋陽まで来るのはとても大変で、お金もか

かった」

 「身元保証人を確保した後も、瀋陽に 5 回、北京に 3 回行った。

日本領事館の職員は書類不足を理由に手続きを断るが、どんな

書類が不足か教えてくれない。また日本の親戚と連絡して書類

を頼んだが、当時、国際電話は1分間で 68 元かかった。月給

が 110 元の頃で、大変だった」

 帰国手続きの混乱・繁雑さは日本政府側のそれだけではない。中

国の行政機関のそれも加わった。

*「当時、中国ではパスポートを作るのも難しく、長期間待たさ

れた。中国の役人はコネがないと会えず、申請書も受け取って

もらえない。賄賂も渡さなければならなかった」

 「私達の帰国当時、天安門事件後で中国の管理は厳しかった。

北京の日本大使館に手続きに行くだけでも、いろんな証明書を

中国の役所に提出しなければならなかった。また日本への『出

国熱(留学・技能実習等)』が流行っていて、パスポートを取

るにも時間がかかった」

 「私は父母を連れて北京の日本大使館に行き、帰国申請手続き

をした。行列に並び、長時間待たされた。高齢の父母には、す

ごくきつかった。北京では宿泊所の確保も大変だった。母は中

国の戸籍がなく、日本人の身分証明書を持っていた。当時、外

国人は安い宿泊所に泊められない規則があった。外国人は高級

ホテルには泊まれるが、私達のような農民がそんなホテルに泊

まれるはずがない。宿泊所の人に事情を話して頼み込み、やっ

と泊めてもらった」

 そして第4に、【後期帰国者】の二世もまた、家族の一部を中国

に残さざるを得なかった。

*「私達は 1994 年にようやく帰国を許可されたが、兄の一家だ

け不許可だった。理由は不明だが、私の一家が母と同居して介

護していたからかも知れない。私は半身不随の母を背負って日

本に帰国した。そして兄を呼び寄せるため、身元引受人の会社

でひどい労働条件でも我慢して働き続け、社長に兄の身元引受

人を依頼した」

 「私は兄弟姉妹と一緒に 7 人で帰国した。父(一世)は帰国す

る前に、中国で死去した。中国の母も子供達が住む日本に来た

いが、まだ来られない。なぜ父が死ぬと、母は日本に来られな

いのか、不思議だ。私達は母を呼び寄せる申請を何度もしたが、

だめだった。それについて、誰に聞けばいいのか、誰が教えて

くれるのか、わからない」

することが困難な場合、第三者に身元引受を依頼するしかない。こ

こでもまた【後期帰国者】には、帰国後の転職の自由のない就労、

または高額の身元引受料が科せられた。

*「先に帰国した弟も不安定な仕事にしかつけず、身元保証人に

なれないので、金銭を払って身元引受人を確保した。私達は身

元保証人がいないという理由で、もう 10 年以上帰国できなかっ

たので、金銭を払うのもやむを得ないと思った。身元引受料は

一人につき 5 万円、一家 6 人で 30 万円だ。帰国して 2 年間、

身元引受人が経営する工場で一家全員が働き、30 万円を給料

から天引きされた」

 「先に帰国した父は低所得で、身元保証人になれない。それで

父の勤務先の社長に身元引受人になってもらった。だから私達

は帰国後の労働条件も、すべて身元引受人の言いなりで、文句

も言えなかった」

 そして両親(一世)が帰国せず中国で死去し、または先に帰国し

た両親(一世)が日本で死去した場合、「呼び寄せ」としての帰国

もできない。そこで 1990 年以降、「日系人」として来日した【後

期帰国者】もいる。南米の日系人は総人数が多いこともあり、ブロー

カーの斡旋による大企業での集団的な就労も少なくない(7)。しか

し、中国の「日系人」は人数が少なく、個人的な繋がりに依拠する

しかない。そこで他の【後期帰国者】と同様、日本の親戚に身元保

証を依頼し、または中小零細企業の経営者と身元引受の契約を交わ

した。

*「先に帰国した母が日本で死去したため、私達には身元保証人

になってくれる人がなかった。母の親戚にあちこち頼み、よう

やくその一人が身元保証人になってくれた」

 「先に帰国した父は、日本で死去した。父の親戚は、私の身元

保証人になるのを断った。私は遺産を放棄する約束をして、よ

うやく保証人を引き受けてもらい来日できた」

 さて第2に、身元保証人・引受人の問題だけでなく、【後期帰国者】

で多数を占める私費帰国には、莫大な費用がかかった。

*「うちは母(一世)も含め、全員が私費帰国だ。何度も国費帰

国の手続きをしたが、どうしても許可されない。不許可の理由

の説明もない。母は高齢で、とにかく早く帰国したかった。そ

れで全員、私費で帰国することにした。1 人 1 万元、母と兄弟

姉妹 7 人で計 8 万元かかった」

 「1992 年から中国人の仲介者に 3 万元を払って帰国手続きをし

た。当時、国費帰国という制度があることを知らなかった。誰

も教えてくれなかった。日本に来るために家財をすべて売って

仲介費を払った」

 「私は私費帰国なので、旅費が 2800 元かかった。農村に住む

私達にとって、旅費負担は厳しかった。当時、うちの収入は私

の給料だけで月 100 元しかなかった。親戚から 100 元、200 元

と借金して、ようやく帰国した」

 第3に、私費帰国の手続きは、国費の手続き以上に繁雑で混乱を

極めた。定まった手続きの方法を提示してくれる機関も人もなく、

対象者は暗中模索の中でそれを行った。

─ 101 ─

S会という団体を通して身元引受人を確保した。S会は一応、

残留孤児の帰国を支援するボランティアだが、実際は中小企業

の経営者が残留日本人の身元引受人になり、自分の会社で働か

せるための団体だ。私達一家も帰国して 3 日目から、ひどい低

賃金で長時間の重労働をさせられた。日本語も学べず、転職も

許されない。帰国後 1 年足らずでS会の役員と喧嘩になり、私

達は東京の厚生省に訴えに行った。厚生省は『ひとまず中国に

戻り、再度、帰国申請せよ』と言う。これは言い逃れだ。私達

は厚生省に何度も申請したが無視され、それでやむなくS会に

依頼したのだ。とても腹が立った。でも厚生省が『とにかく一

度中国に戻ってくれ。日本政府が責任をもって来日させるから』

と言うので、私達は中国に戻った。そして 1997 年、ようやく

国費で日本に永住帰国できた」

 「身元保証人が確保できず、何度手続きしても成功しなかった。

結局、ある焼鳥会社の社長が、私達の一家が帰国後、彼の工場

で働くことを条件に身元引受人になってくれた。彼は当時、中

国に労働力を募集に来ていた。こうして母は残留孤児として、

私達は残留孤児関係のビザではなく、(日系人として)就労ビ

ザで一緒に帰国した」

 両親(一世)と同伴で私費帰国した【後期帰国者】には、斡旋業

者に金銭を支払い、両親(一世)を含めた身元引受人を確保した事

例もある。斡旋業者への支払いは借金で賄われ、帰国後の就労で返

済された。ここでもまた残留日本人(一世)の帰国は、二世の帰国

後の就労を前提として初めて可能となった。

*「中国に身元引受人の斡旋業者がいて、日本の社長を紹介して

くれた。『日本で働ける人は来日できる』と言われた。労働力

になれない人は、来日できないということだ。当時、身元引受

人の仲介料として 3 万元かかった。すべての家財や住宅を売り

払っても足りず、あちこちから借金した。それでも手続きが成

功するまで 3 年間かかった」

 一方、【後期帰国者】で多数を占める私費・呼び寄せ帰国の場合、

先に帰国した両親(一世)、または前述の如く、年少の弟妹(【早期

帰国者】)が日本で就労して経済的に自立し、身元保証人にならね

ばならなかった。高齢の両親(一世)が無理に就労して健康を害し

たケースも少なくない。

*「先に帰国した父は、私達を日本に呼び寄せたかった。でも経

済的に自立しなければ身元保証人になれず、父は高齢を押して

働いた。父だけでなく、多くの残留孤児が無理をして働き、怪

我をしたり、病気で身体を壊した。日本政府は、子供を呼ぶ身

元保証人すら紹介してくれなかった」

 「1979 年、母は一人で先に帰国した。その後、1990 年に妹と

私を呼び寄せるまで、母はストレスで一杯だった。母はもとも

と身体が弱かったが、私達を呼び寄せるため無理をして働いた。

そして 50 数歳で脳出血で急死してしまった。日本政府は、な

ぜ子供の帰国を国費と私費に分けたのか。20 歳を過ぎ、結婚

したら、親の子供ではないと言うのか」

 先に帰国した両親(一世)や弟妹が日本で就労し、経済的に自立

れた。その後、中国に残っていた父と弟を呼び寄せようとした

が、これも大変だった。父が事故で片腕を失っていることを知

ると、身元引受人が、私達に黙って入国管理局に行き、辞退し

てしまったのだ。私達は、いくら待っても許可が出ないので入

国管理局に確かめ、初めて事情がわかった」

第2項 【後期帰国者】

 さて、いま一つは 1990 年以降まで帰国が遅延した【後期帰国者】

である。帰国した対象者の二世の 82.4% を占める。

 【後期帰国者】の多くは帰国時、22 歳以上で既婚であり、配偶者・

子供と一緒に帰国した。

 【後期帰国者】の場合、そもそも両親(一世)の帰国自体が 1989

年以降と【早期帰国者】よりも遅延していた。また【後期帰国者】

の中でも、両親(一世)の帰国が遅延するほど、対象者(二世)も

帰国が遅れ、帰国時に既に高齢化している。

 しかも【後期帰国者】の多くは、私費での呼び寄せ帰国であり、

両親(一世)以上に帰国が遅延した。最も帰国が遅延した対象者の

帰国年次は 2008 年、帰国時の最高齢は 64 歳である。

 なお【後期帰国者】の中でも一部、国費で両親(一世)と同伴帰

国したケースがある。これは主に前述の如く、1994 年以降、日本

政府が 65 歳以上の一世の帰国に際し、成人・既婚の二世の国費・

同伴帰国を一世帯に限り認めたためである。また両親(一世)の帰

国と同時に、二世が私費で帰国したケースもある。

 【後期帰国者】は、帰国手続きの困難さを痛感している。

 第1の困難は、身元保証人・身元引受人の確保であった。

 両親(一世)の身元保証人の確保が困難だった点は、【早期帰国者】

と同じである。

*「母は 1976 年に親戚訪問で一時帰国した時、日本の兄に永住

帰国の身元保証人を頼んだ。でも兄は、生活がギリギリで身元

保証人になるのは無理だと断った。そして兄は 1980 年に死去

した。母は身元保証人の当てがなくなり、帰国できなくなった。

とてもかわいそうだった」

 「父と私は 1978 年、親戚訪問で日本に一時帰国した。それ以来、

一日も早く日本に永住帰国したかったが、日本の親戚は皆、私

達の永住帰国に反対し、身元保証人になってくれなかった。そ

れで何年間も交渉し、1995 年にようやく伯母が身元保証人に

なってくれ、帰国が果たせた」

 「母は兄弟姉妹に身元保証人を頼んだが、いい返事が得られな

かった。母が親戚訪問で一時帰国した時、親戚もいろいろお金

を使って面倒を見たりして大変だったからだ」

 両親(一世)と同伴だが私費で帰国した【後期帰国者】には、自

ら(二世)が帰国後、労働力として雇用される契約を日本の中小企

業経営者と結び、両親(一世)も含めた身元引受を依頼した事例も

少なくない。

*「日本の祖父が判明したが、日本政府が祖父に息子 ( 一世 ) 一

家が来日したら生活費を負担しなければならないと伝えたの

で、祖父は身元保障人になってくれなかった。父は 1989 年か

ら日本の親戚に何度も電話したが、誰も身元保証人になってく

れず、そのうち祖父も他界してしまった。父と私は 1992 年、

─ 100 ─

(213)

機・前提条件であった。第2に、家族ぐるみの帰国であり、帰国時

の年齢も幼少者から高齢者まで多様で、中高年者の比率も高かった。

そして第3に、中国に生活基盤を残さず、当初から日本への永住を

想定した帰国が多かった。

 こうした特徴は、二世の日本への帰国動機にも影響している。

第1項 【早期帰国者】

 まず【早期帰国者】の多くは、年少・未婚で両親(一世)と同伴

帰国した。そこで両親の帰国動機の中に、自らの教育・将来への期

待を感じ取っていた二世が少なくない。

*「父母は私達を日本に連れて行き、日本語を習えば、将来、役

立つと考えたようだ。父母は私達に『日本に行くとお前達も苦

労もするだろう。でも若い時に苦労するのはいいことだ。日本

は中国よりずっと発達した国だから、きっとお前達の将来に良

いことがある』と言った」

 しかしこれは、日本への帰国が必ずしも【早期帰国者】の二世自

身の選択・意思ではなかったことをも意味している。

*「日本に行ってみたい気持ちもあったが、嫌だという気持ちの

方が強かった。高校を卒業したばかりで、仲のよい友人と別れ、

言葉も通じない日本に行くのは不安だった。私や兄への事前相

談・家族会議はなかった。周囲は『行けてよかった』という雰

囲気が蔓延していて、とても『行きたくない』と言い出せる雰

囲気ではなかった」

 「日本への帰国について家で議論されたが、私は幼かったから

あまり理解できなかった。何も考えず、母について日本にきた

だけだ。日本に来てから、もう中国には戻らないと聞かされ、

驚いた」

 「私は中国で国有企業に就職したばかりで、その仕事をやめる

のは少し惜しかった。待遇がよく、『鉄飯碗』の安定した職場

を重視する風潮がまだ残っていたからだ。でも父も母も行くの

だから、私も行くしかなかった」

 また【早期帰国者】が帰国した 1989 年以前、中国では未だ文化

大革命の記憶が濃厚に残存していた。そこでやや年長の【早期帰国

者】の一部は、政治的動機で帰国を決意した。

*「文化大革命を経験して、中国への感情が変わった。日本への

帰国で、ようやく中国から逃げ出せるという気持ちだった。再

び文化大革命のような迫害を受けたらどうしようと怖かった。

それで日本に行く方がいいと思った」

 「母は中国で偏見や嫌がらせを受け、苦労して生きてきた。そ

れを考えると、母の後半生は故郷に帰り、差別も偏見もない環

境ですごす方がいいと思った。私も文化大革命時代の話を聞く

と、将来に不安があった」

第2項 【後期帰国者】

 一方、【後期帰国者】の多くは前述の如く、父母(一世)や弟妹

が先に帰国して呼び寄せられた。いわば日本に既に家族が永住して

いることが、帰国の前提条件であった。

 【後期帰国者】の帰国動機は、2つに大別される。

小括

 二世の永住帰国の経過とそこでの諸問題を見てきた。

 まず第1に、二世の永住帰国の年次は、日本政府の帰国制限政策

によって大枠で規定され、総じて大幅に遅延した。またその中でも

【早期帰国者】と【後期帰国者】に大別され、それぞれ帰国時の年

齢や家族構成、帰国旅費・手続きの困難さが異なっていた。同じ家

族の中でも【早期帰国者】と【後期帰国者】が併存する場合も少な

くない。したがって残留日本人(一世)の帰国が、家族の離別を意

味することも多かった。また家族の呼び寄せの手続きは、残留日本

人(一世)・【早期帰国者】・【後期帰国者】の違いを問わず、帰国後

の就学や就労にまで多大な制約を科した。

 第2に、帰国が特に遅延した【後期帰国者】の多くは私費での呼

び寄せ帰国だが、それ以外にも一世との国費・私費での同伴帰国、「日

系人」としての帰国等、多様な形態があった。これもまた日本政府

の帰国制限政策の変遷に起因する多様性である。しかも【後期帰国

者】の帰国に必要な身元引受人の確保には、帰国後の劣悪な労働条

件での就労契約、または多額の身元引受料の支払い等が極めて広範

に見られた。私費帰国には、莫大な経費と繁雑な手続きも必要で、

これらも【後期帰国者】の帰国を一層遅延させる大きな要因となっ

た。

 そして第3に、こうした【後期帰国者】の二世の帰国を前提とし

なければ、残留日本人(一世)の帰国そのものが困難な場合も少な

くなかった。実際、高齢の一世が二世を同伴せず、一人または老夫

婦のみで日本に帰国することは困難であった。二世を同伴できない

ために、一世の帰国が一層遅延した事例もある。1990 年以降、可

能になった「日系人」としての二世の帰国も、両親(一世)が中国

や日本で死去した場合だけでなかった。高齢の両親(一世)と同伴

帰国するためにも、二世が「日系人」としての来日資格を取得する

必要があったケースも見られた。

 以上のように二世、特に【後期帰国者】の帰国は、日本政府の厳

格な帰国制限政策に阻まれ、大幅に遅延した。しかしそれでも彼・

彼女達は粘り強く帰国の申請を続け、ついに永住帰国を達成した。

言いかえれば、こうした二世の行為の積み重ねが日本政府の帰国制

限政策やその運用の漸次的な緩和をもたらし、一世を含む帰国の道

を「こじ開け」たのである。

第2節 二世の永住帰国の特徴と動機

 さて、二世の日本への「帰国」は、同時期のニューカマーの外国

人の「来日」とは異なる特徴をもつ。特に同時期、中国人の留学・

就学・研修・技能実習等での来日が急増(8)していたが、これらと

残留日本人二世の「帰国」とは大きく異なる。

 もとより二世の帰国動機の少なくとも一部に日中の経済格差が

あったという点では、ニューカマーの外国人の「来日」と共通性は

ある。また第1章で述べた如く、特に 1990 年代以降、改革開放の

本格化に伴い、中国では経済格差が広がり、大多数の民衆の生活は

不安定化した。こうした経済的事情が、【後期帰国者】の一つの帰

国動機になったことも確かである。

 しかし、残留日本人の二世の「帰国」は多くの場合、次の3つの

点で一般的なニューカマーの外国人の「来日」とは異なる。まず第

1に、高齢の両親(一世)の日本への帰国が二世の帰国の直接の動

─ 102 ─

(214)

なった。

 【後期帰国者】では数少ない父母(一世)との同伴帰国の場合、

それが特に顕著である。

*「私は周りから羨まれる良い仕事につき、夫も公安局の公務員

で、その生活を捨てて日本に行くのはとても不安だった。中国

の親戚・友人と別れるのも辛かった。ただ母が長年、日本への

帰国を切望し、『日本に帰りたい』と泣いて訴えた。私は一人っ

子なので、やむなく帰国の手続きをした」

 「帰国当時、私は 46 歳で安定した仕事もマンションも持ち、生

活に満足していた。日本に行けば言葉もできず、就職も厳しい

だろう。安定した生活を捨て、見知らぬ国に行くのが本当にい

いのか、自分でも疑問だった。それでも母は高齢で、最後は生

まれ故郷に帰って落ち着きたいだろう、何十年も異国に住んで

苦労してきたので、最後は日本で晩年をまっとうさせてあげた

いと思った」

 「父母が帰国するに当たり、高齢の父母だけを帰すわけにはい

かなかった。介護をする人が必要だ。それで一家で帰国するこ

とにした。私達夫婦だけのことを考えれば、中国でいい仕事、

いい生活をしていたのだから、日本に行くメリットはなかった。

日本語ができないことも不安だった」

 【後期帰国者】で多数を占める呼び寄せ帰国の場合も、やはり日

本にいる父母・弟妹への思いが帰国を決断させた。

*「帰国時、とても複雑な心境だった。結婚して子供もいて、い

い仕事もしていたからだ。また私は日本について何も知らず、

先に帰国した弟の話によれば、日本で仕事を見つけるのはとて

も難しいという。ただ父母と兄弟姉妹が皆、日本に行き、私だ

け中国に残るのは辛かった。母が日本人でさえなければ、私達

が日本に来るわけがない」

 「私達夫婦は、本心は日本に行きたくなかった。私も夫も技師

で仕事にやりがいがあり、収入も良かった。また日本語ができ

ず、日本で仕事が見つかるか心配だった。日本に行けば肉体労

働しかできず、夫は身体が弱いので苦労に耐えられない恐れも

ある。しかも私達は当時、夫の母と同居していた。夫は親孝行

だから、姑一人を残して日本に行くはずがない。ただそれでも

母や兄弟姉妹が皆、日本に先に行き、私達も来るように勧めた。

そうこうしているうちに姑が亡くなった。それで私達も日本に

行くことにした」

 「日本に帰国した母が脳膜炎に罹り、また中国にいる私達のこ

とが心配で頭痛が治らなかった。母は『子供達に会いたい』と

泣いて訴えた。父も喘息で中国に戻っても仕事ができない。そ

れで私達は家族で何度も話し合い、ようやく日本に行くことに

同意した。両親の面倒をみるためだ」

 「私は中国での生活は豊かだったから、来日する必要はないと

思っていた。でも日本の母が癌になり、どうしても私に会いた

いと言った。私は兄弟姉妹の中で一番頼りにされていたから、

母も私に会いたかったのだと思う。私は母の世話をするため、

日本にやって来た」

 ただし、こうした動機での帰国は、二世の配偶者にとっては逆に

 一つは、中国の改革開放政策の本格化に伴い、生活が不安定化し

ていた二世の場合、父母や弟妹が先に帰国している日本に行くこと

が、自らの生活の安定化の道でもあった。家族の再結合と経済生活

の安定という二つの目的が一体化したのである。

*「中国では貧しい農民だったので、日本に行けるのはうれしかっ

た。両親が日本にいるから、家族団欒のためでもある。私は最初、

村人達と一緒に労務輸出のビザで来日しようと思った。でも費

用が高すぎて諦めた。その後、母が帰国の手続きをしてくれた」

 「夫が交通事故に遇い、中国での生活が厳しくなったため、帰

国した。日本に行くと、よりよい生活を送れると思った。両親

と兄弟姉妹が皆、日本にいる。母は体が悪いから、看病もした

かった」

 「中国では、夫と一緒に小商売をしたが楽ではなかった。掛売

りは珍しくないが、代金の取りたてがすごく難しい。それで日

本に行こうと決めた。また母も帰国後、中国に残した子供達を

懐かしんで皆を呼び寄せた。皆、日本への帰国に何の文句もな

かった。わが家は 40 人余りが帰国した」

 父母(一世)と同伴帰国した【後期帰国者】にも、経済的動機が

見られる。

*「養祖母が母に『中国では生活が厳しいから日本に行ったらど

うか、日本に行けば日本政府が助けてくれる』と言い、母も帰

国手続きを始めた。私も母が日本に行くし、また中国での生活

が苦しく、日本に帰れば少しでも楽になるのではないかと思っ

て帰国した」

 「勤務先の会社が不景気になり、給料が出なくなるかも知れな

いと皆、戦々恐々としていた。それで周りの人に勧められ、母

と一緒に日本に行くことにした。日本は豊かな国で、自分にとっ

てチャンスかも知れないと思った」

 なおこうした不安定層の二世の場合、配偶者にも日本への帰国に

反対する声は少ない(9)。

*「日本は中国より経済が豊かだから、来るのはとてもうれしかっ

た。日本で仕事をすれば、きっと給料が高いと思った。また姑

が日本人だから日本に帰るのは当然で、私達も姑の世話をしな

ければならない」

 「先に日本に来た舅が『日本はいい国だ』と言ってきた。ちょ

うど私は勤務先の村集団企業が倒産して失業していた。それで

日本に行こうと思った。舅は夫の弟と一緒に帰国したが、弟一

家にあまり面倒をみてもらえなかった。それで私の一家を日本

に呼んだ。中国にいた時、舅と私の一家と同居していたからだ」

 「姑が日本に帰国したがった。ちょうどその時、私の勤務先の

工場が倒産した。一家の生計は夫一人が支え、生活に余裕がな

かった。それで姑の面倒をみるためにも、生活を安定させるた

めにも、日本に行った方がいいと思った」

 これに対し、中国で安定した生活を営んでいた【後期帰国者】は、

日本に帰国すべきかどうか葛藤し、悩み抜いた末に帰国を決意した。

帰国の最大の動機は、父母(一世)や兄弟姉妹が日本にいることだっ

た。特に高齢化した父母への思いは、帰国を決断する大きな動機と

─ 103 ─

機・前提条件であった。第2に、家族ぐるみの帰国であり、帰国時

の年齢も幼少者から高齢者まで多様で、中高年者の比率も高かった。

そして第3に、中国に生活基盤を残さず、当初から日本への永住を

想定した帰国が多かった。

 こうした特徴は、二世の日本への帰国動機にも影響している。

第1項 【早期帰国者】

 まず【早期帰国者】の多くは、年少・未婚で両親(一世)と同伴

帰国した。そこで両親の帰国動機の中に、自らの教育・将来への期

待を感じ取っていた二世が少なくない。

*「父母は私達を日本に連れて行き、日本語を習えば、将来、役

立つと考えたようだ。父母は私達に『日本に行くとお前達も苦

労もするだろう。でも若い時に苦労するのはいいことだ。日本

は中国よりずっと発達した国だから、きっとお前達の将来に良

いことがある』と言った」

 しかしこれは、日本への帰国が必ずしも【早期帰国者】の二世自

身の選択・意思ではなかったことをも意味している。

*「日本に行ってみたい気持ちもあったが、嫌だという気持ちの

方が強かった。高校を卒業したばかりで、仲のよい友人と別れ、

言葉も通じない日本に行くのは不安だった。私や兄への事前相

談・家族会議はなかった。周囲は『行けてよかった』という雰

囲気が蔓延していて、とても『行きたくない』と言い出せる雰

囲気ではなかった」

 「日本への帰国について家で議論されたが、私は幼かったから

あまり理解できなかった。何も考えず、母について日本にきた

だけだ。日本に来てから、もう中国には戻らないと聞かされ、

驚いた」

 「私は中国で国有企業に就職したばかりで、その仕事をやめる

のは少し惜しかった。待遇がよく、『鉄飯碗』の安定した職場

を重視する風潮がまだ残っていたからだ。でも父も母も行くの

だから、私も行くしかなかった」

 また【早期帰国者】が帰国した 1989 年以前、中国では未だ文化

大革命の記憶が濃厚に残存していた。そこでやや年長の【早期帰国

者】の一部は、政治的動機で帰国を決意した。

*「文化大革命を経験して、中国への感情が変わった。日本への

帰国で、ようやく中国から逃げ出せるという気持ちだった。再

び文化大革命のような迫害を受けたらどうしようと怖かった。

それで日本に行く方がいいと思った」

 「母は中国で偏見や嫌がらせを受け、苦労して生きてきた。そ

れを考えると、母の後半生は故郷に帰り、差別も偏見もない環

境ですごす方がいいと思った。私も文化大革命時代の話を聞く

と、将来に不安があった」

第2項 【後期帰国者】

 一方、【後期帰国者】の多くは前述の如く、父母(一世)や弟妹

が先に帰国して呼び寄せられた。いわば日本に既に家族が永住して

いることが、帰国の前提条件であった。

 【後期帰国者】の帰国動機は、2つに大別される。

小括

 二世の永住帰国の経過とそこでの諸問題を見てきた。

 まず第1に、二世の永住帰国の年次は、日本政府の帰国制限政策

によって大枠で規定され、総じて大幅に遅延した。またその中でも

【早期帰国者】と【後期帰国者】に大別され、それぞれ帰国時の年

齢や家族構成、帰国旅費・手続きの困難さが異なっていた。同じ家

族の中でも【早期帰国者】と【後期帰国者】が併存する場合も少な

くない。したがって残留日本人(一世)の帰国が、家族の離別を意

味することも多かった。また家族の呼び寄せの手続きは、残留日本

人(一世)・【早期帰国者】・【後期帰国者】の違いを問わず、帰国後

の就学や就労にまで多大な制約を科した。

 第2に、帰国が特に遅延した【後期帰国者】の多くは私費での呼

び寄せ帰国だが、それ以外にも一世との国費・私費での同伴帰国、「日

系人」としての帰国等、多様な形態があった。これもまた日本政府

の帰国制限政策の変遷に起因する多様性である。しかも【後期帰国

者】の帰国に必要な身元引受人の確保には、帰国後の劣悪な労働条

件での就労契約、または多額の身元引受料の支払い等が極めて広範

に見られた。私費帰国には、莫大な経費と繁雑な手続きも必要で、

これらも【後期帰国者】の帰国を一層遅延させる大きな要因となっ

た。

 そして第3に、こうした【後期帰国者】の二世の帰国を前提とし

なければ、残留日本人(一世)の帰国そのものが困難な場合も少な

くなかった。実際、高齢の一世が二世を同伴せず、一人または老夫

婦のみで日本に帰国することは困難であった。二世を同伴できない

ために、一世の帰国が一層遅延した事例もある。1990 年以降、可

能になった「日系人」としての二世の帰国も、両親(一世)が中国

や日本で死去した場合だけでなかった。高齢の両親(一世)と同伴

帰国するためにも、二世が「日系人」としての来日資格を取得する

必要があったケースも見られた。

 以上のように二世、特に【後期帰国者】の帰国は、日本政府の厳

格な帰国制限政策に阻まれ、大幅に遅延した。しかしそれでも彼・

彼女達は粘り強く帰国の申請を続け、ついに永住帰国を達成した。

言いかえれば、こうした二世の行為の積み重ねが日本政府の帰国制

限政策やその運用の漸次的な緩和をもたらし、一世を含む帰国の道

を「こじ開け」たのである。

第2節 二世の永住帰国の特徴と動機

 さて、二世の日本への「帰国」は、同時期のニューカマーの外国

人の「来日」とは異なる特徴をもつ。特に同時期、中国人の留学・

就学・研修・技能実習等での来日が急増(8)していたが、これらと

残留日本人二世の「帰国」とは大きく異なる。

 もとより二世の帰国動機の少なくとも一部に日中の経済格差が

あったという点では、ニューカマーの外国人の「来日」と共通性は

ある。また第1章で述べた如く、特に 1990 年代以降、改革開放の

本格化に伴い、中国では経済格差が広がり、大多数の民衆の生活は

不安定化した。こうした経済的事情が、【後期帰国者】の一つの帰

国動機になったことも確かである。

 しかし、残留日本人の二世の「帰国」は多くの場合、次の3つの

点で一般的なニューカマーの外国人の「来日」とは異なる。まず第

1に、高齢の両親(一世)の日本への帰国が二世の帰国の直接の動

─ 102 ─

(215)

人の子供に『日本はとても勉強が出来るいいところだ』と教え

た。子供はとても喜んでいた」

 「子供が高校を卒業しても仕事がなく、ぶらぶらしていた。こ

のままでは悪の道に走りかねないと思い、子供に新しい未来を

与えようと日本に帰国した」

 【後期帰国者】の中で、中国での生活が不安定で帰国を切望して

いた二世と、生活が安定して日本への帰国に悩んでいた二世の間で、

帰国年次に顕著な違いはない。帰国年次は前述の如く、日本政府の

帰国制限政策をいつクリアできたかによって決まった。個々人の意

思や心情とは、直接関係がない。

 そして【後期帰国者】やその配偶者には帰国時、「とりあえず日

本に行って様子をみて、定住するかどうか決めよう」と考えていた

人もいる。もちろん全体としては、当初から中国の生活基盤を処分

し、日本への永住を想定した帰国が多い。ただし一部にはそうでな

いケースも見られた。彼・彼女達が結果的に日本に定住した理由も

また前述の帰国動機、すなわち①父母(一世)や兄弟姉妹が日本に

定住していること、②日本での生活環境・福祉制度等に中国のそれ

より何らかの優越性を実感したこと、そして③子供の日本での就学・

就職等がなされ、子供が中国への帰還を望まなかったこと等である。

また「様子を見にきた」と語る【後期帰国者】も含め、基本的には

家族ぐるみの帰国であり、日本で働いて中国に送金しようという発

想ではなかったことが、なし崩し的な定住化に繋がったと考えられ

る。

*「最初は日本に定住するつもりはなかった。でも中国に肉親が

いないから、帰ると寂しくなる。また子供が中国に帰りたがら

なかった。それで知らず知らずのうちに定住になってしまった。

来た時は、中国の仕事は休職扱いだったが、何年間も中国に戻

らないから、解雇されてしまった」

 「日本でうまくいかなければ、中国へ帰ろうと思っていた。夫も、

日本で様子を見て、生活できなければ中国に戻ればいいと言っ

ていた。でも思いもよらぬことに日本へ帰ってすぐ母が病気に

なり、看病しているうちに、知らぬ間に 10 年が過ぎてしまった。

自分でも予想していなかった」

 「私は親戚訪問で日本に行き、日本の生活条件を見て定住する

かどうか決めようと思っていた。でも妻や子供は皆、最初から

定住するつもりだった。それで一緒に永住手続きをした方が便

利だと言われ、私も一緒に手続きをした」

小括

 二世の永住帰国の動機と特徴を見てきた。簡単に総括する。

 まず第1に、二世の「帰国」は、ニューカマーの外国人の「来日」

とは異質な特徴をもっていた。すなわち高齢の両親(一世)の日本

への帰国が、二世自身の帰国の直接の動機または前提条件となって

いた。また家族ぐるみの帰国であり、そこで二世の年齢も多様で中

高年者の比率も高かった。さらに中国に生活基盤を残さず、当初か

ら日本への永住を想定した帰国が多かった。こうした特徴は、二世

の帰国が個人的な階層上昇・自己実現・能力の発揮といった業績的

な動機(10)より、むしろ家族・血縁・世代といった属性的な動機に

重点があったことを意味している。たとえ経済的動機があっても、

中国の両親・兄弟姉妹との離別を意味する。帰国に反対・抵抗した

配偶者も少なくない。

*「夫は帰国に反対した。夫は渡日すると、私の父のように家族

と離散することになる。夫に『どうしても日本に行くなら、離

婚する』と言われ、すごく悩んだ。何度も話し合い、最後によ

うやく夫も帰国してくれることになった」

 「妻(二世)と娘が日本に行くし、妻の両親と弟も日本にいる。

舅は体がよくない。私は本当は日本に行きたくなかったが、一

人で中国に残るわけもいかなかった。中国で安定した仕事があ

り、いい生活を送っていた。職場で同僚との仲もよく、私の親

戚も皆、中国にいる。正直、中国を離れたくなかった。日本に

来たら妻や娘と団欒できるが、中国の親戚とは離れ離れになっ

てしまう」

 また、日本にいる家族(父母・兄弟姉妹)への思いがいかに強く

ても、それだけが唯一の帰国動機だったわけではない。中国との比

較で、日本社会に何らかの長所を見出していなければ、帰国は決断

しなかったと思われる。配偶者の場合、尚更である。

 そうした動機の一つは、比較的若い【後期帰国者】にとっては将

来性であった。

*「当時、海外に行く方が将来性があるというのが一般的な風潮

だった。それで私も、とりあえず日本に行って力試しをしてみ

ようと思い、帰国を決意した」

 「私は中国で比較的裕福だったが、さらに飛躍するチャンスだ

と思った。成功するにしても失敗するにしても、日本の方がい

ろんな可能性があると感じた。外国に行ってみたいという気持

ちも強かった」

 年長者も含め、日本の生活環境の良さ・福祉制度の充実も、一つ

の帰国動機となった。

*「親戚訪問で一時帰国した時、日本は空気がきれいで環境がよ

く、人は親切で礼儀正しかった。だから日本に行く方がいいと

思った」

 「私と妻の二人だけなら、中国でも退職金があるので、生活で

困ることはない。でも日本の方が、もっと安定している。たと

えば日本は健康保険があるので、誰でも治療が受けられる。中

国では小さな病気でも莫大な治療費を取られ、普通の人はまと

もな治療が受けられない」

 そしてこれらの動機は、「子供(三世)のため」という形で二世

と配偶者に共有された。子供の教育・就職・将来等を考え、日本へ

の帰国を決意したのである。

*「親戚訪問で一時帰国した時、中国に比べ、日本の教育や福祉

がいいと感じた。それで一人娘のために、日本に帰る決意をし

た。ただ子供の将来のため、それだけだ」

 「私は 1982 年、既に日本に帰国していた母を親戚訪問して、

半年ほど滞在し、子供の教育が充実しているのに感心した。そ

れで子供が中国語と日本語の両方を身につけられるよう、子供

の未来のために日本に帰国した方がいいと思った。私は中国で

小学校の教師だったから、子供の教育を特に重視していた。二

─ 104 ─

(216)

かなかった。母はその後、日本で死去したので、墓参には行き

たい」

 「私は公務員、妻は航空乗務員で、夫婦で月収 4000 ~ 5000 元

だ。満足している。余暇の時間が多く、読書が好きだ。高校時

代の同級生と親しく交際している。日本に行きたいと思ったこ

とはない。日本にいくと、大卒の学歴もこれまでの経歴も生か

せないだろう。友達は私に『君は中国にいたら上層の 10%だ

が、日本に行けば下層の 10%になるよ』と言った。その通りだ。

今の仕事が大好きだし、生活水準が下がるのも嫌だ。旅行なら

行ってもいい。父と兄は日本に永住帰国した。兄は中国で花屋

を開業したが、うまくいかず、日本で新たな道を探すことにし

た。日本には兄の一家がいるから、父母の老後の面倒も心配な

い」

 「夫婦とも獣医で、私は動物管理センターの副所長だ。夫婦で

月給は低い月でも 2000 元以上ある。今、家を新築中で、まも

なく完成する。大学時代の同級生や同僚、10 数人とよく交際

している。うちは母 ( 一世 ) も獣医で、父は動物管理センター

の所長だ。母は日本の肉親が見つかったが、日本に帰国するつ

もりはない。まして私達二世が帰国したいと思うわけがない。

観光旅行なら行ってもいい」

 第2は、労働者・零細自営業・農民等の二世である。

 農民は 1959 年以前に生まれた高齢層が多く、世帯収入は月額

500 元未満と特に低い。子供も農民または非正規雇用の労働者で、

趣味も少ない。

それは単純な個人の上昇志向というより、家族・血縁・世代等の属

性を前提としたものであった。個人的にいえば、「望まざる帰国」

も少なくなかった。

 第2に、二世の帰国動機・帰国時の意識は、帰国年次によって大

きく変化した。そこには二重の背景があった。一つは、マクロな社

会変動である。1990 年頃を境に、世界的には東西冷戦からグロー

バリゼーションへとシフトし、中国国内でも文化大革命等の記憶が

薄れ、改革開放・市場経済化が本格化した。しかも改革開放の進展

に伴い、中国国内で経済的な両極分解・格差拡大が進んだ。二世の

帰国の動機や意識も、概ねそうした社会変動の実相を反映していた。

もう一つの背景は、帰国時の年齢階梯・家族構成、つまり二世自身

のライフステージである。ただし、こうした帰国動機や意識の相違

は、二世の帰国年次を規定したわけではない。二世の帰国時期は前

述の如く、日本政府の帰国制限政策によって大枠で決まり、動機や

社会意識はむしろその従属変数であった。

 そして第3に、家族・血縁・世代等の属性的動機が前提条件であっ

たとしても、それが動機のすべてではなかった。「(個人的には)望

まざる帰国」を決断した二世も含め、中国社会より日本社会に何ら

かの長所を見出していたことは事実である。それは子供の教育や将

来性、医療福祉制度等であり、ここでもまた純粋に個人の経済的・

業績的な利益というより、子供・父母(一世)を含む家族生活の安

定・将来性が重視されていた。その意味で、ここには一方でポスト・

コロニアルの世界における南北格差が大きな意味をもった。同時に

他方では、二世の帰国は自らと家族の「生命-生活」の世代的・発

展的な再生産を目指す主体的な選択でもあった。

第3節 永住帰国していない二世

 さて対象者の 26.1% は、調査時点で日本に一度も永住帰国せず、

一貫して中国に在住していた。

 ここには、大きく2つの類型がある(表 2-2)。

 まず第1は、専門職・管理職に従事している二世である。年齢は

多様だが、月額 2000 元以上の世帯収入を確保し、生活上の問題は

少ない。趣味も多彩である。子供達(三世)が成人している場合、

その生活も安定している。そして何より、日本に永住帰国した父母

(一世)は既に死去したか、または同伴帰国した兄弟姉妹がいて扶養・

介護に問題がない。彼・彼女達の多くは日本への帰国を希望してい

ない。

*「中国での生活は安定し、仕事に不満もない。趣味は散歩とダ

ンス、トランプ、文章を書くことなど多彩だ。息子夫婦も不動

産管理会社に勤務し、生活は安定している。日本への永住帰国

は考えたこともない。私はずっと中国で仕事も生活もしてきた

し、親戚も子供も中国にいるからだ。日本に引き揚げて亡くなっ

た母と妹の墓参には行きたいが、永住帰国など思いもよらない」

 「夫婦の月給は計 3500 元で、とても満足している。家も自分

で買った。息子は清華大学を卒業し、中国科学研究院の大学院

に在学中だ。親しい同僚や仲間が 20 ~ 30 人いる。定年退職

したら、ボランティアをしたい。日本に定住するつもりはない。

機会があれば、観光には行ってみたい。もし息子が日本に留学

したいと言うなら行かせるが、息子は留学するなら英語圏に行

くだろう。母が帰国する時も、私は中国での仕事が良いから行

専門

管理

労働

農民 計

1946~1959年

1962~1967年

1968~1979年

3

-

4

1

4

6

5

-

1

9

4

11

2000~8000元

500~2000元未

500元未満

6

1

-

1

10

-

-

1

5

7

12

5

帰国

希望

あり

葛藤

なし

-

1

6

10

-

1

5

-

1

15

1

8

小計 7 11 6 24

1945~1959年

1962~1967年

1968~1980年

-

-

1

1

1

-

2

-

1

3

1

2

2000~8000元

500~2000元未

500元未満

-

1

-

1

1

-

-

1

2

1

3

2

帰国

希望

あり

なし

-

1

2

-

3

-

5

1

小計 1 2 3 6

計 8 13 9 30

表 2-2 永住帰国していない事例の内訳(調査時職業別)

注 : 労働者 : 零細都市自営業者を含む。資料 : 実態調査より作成。

─ 105 ─

人の子供に『日本はとても勉強が出来るいいところだ』と教え

た。子供はとても喜んでいた」

 「子供が高校を卒業しても仕事がなく、ぶらぶらしていた。こ

のままでは悪の道に走りかねないと思い、子供に新しい未来を

与えようと日本に帰国した」

 【後期帰国者】の中で、中国での生活が不安定で帰国を切望して

いた二世と、生活が安定して日本への帰国に悩んでいた二世の間で、

帰国年次に顕著な違いはない。帰国年次は前述の如く、日本政府の

帰国制限政策をいつクリアできたかによって決まった。個々人の意

思や心情とは、直接関係がない。

 そして【後期帰国者】やその配偶者には帰国時、「とりあえず日

本に行って様子をみて、定住するかどうか決めよう」と考えていた

人もいる。もちろん全体としては、当初から中国の生活基盤を処分

し、日本への永住を想定した帰国が多い。ただし一部にはそうでな

いケースも見られた。彼・彼女達が結果的に日本に定住した理由も

また前述の帰国動機、すなわち①父母(一世)や兄弟姉妹が日本に

定住していること、②日本での生活環境・福祉制度等に中国のそれ

より何らかの優越性を実感したこと、そして③子供の日本での就学・

就職等がなされ、子供が中国への帰還を望まなかったこと等である。

また「様子を見にきた」と語る【後期帰国者】も含め、基本的には

家族ぐるみの帰国であり、日本で働いて中国に送金しようという発

想ではなかったことが、なし崩し的な定住化に繋がったと考えられ

る。

*「最初は日本に定住するつもりはなかった。でも中国に肉親が

いないから、帰ると寂しくなる。また子供が中国に帰りたがら

なかった。それで知らず知らずのうちに定住になってしまった。

来た時は、中国の仕事は休職扱いだったが、何年間も中国に戻

らないから、解雇されてしまった」

 「日本でうまくいかなければ、中国へ帰ろうと思っていた。夫も、

日本で様子を見て、生活できなければ中国に戻ればいいと言っ

ていた。でも思いもよらぬことに日本へ帰ってすぐ母が病気に

なり、看病しているうちに、知らぬ間に 10 年が過ぎてしまった。

自分でも予想していなかった」

 「私は親戚訪問で日本に行き、日本の生活条件を見て定住する

かどうか決めようと思っていた。でも妻や子供は皆、最初から

定住するつもりだった。それで一緒に永住手続きをした方が便

利だと言われ、私も一緒に手続きをした」

小括

 二世の永住帰国の動機と特徴を見てきた。簡単に総括する。

 まず第1に、二世の「帰国」は、ニューカマーの外国人の「来日」

とは異質な特徴をもっていた。すなわち高齢の両親(一世)の日本

への帰国が、二世自身の帰国の直接の動機または前提条件となって

いた。また家族ぐるみの帰国であり、そこで二世の年齢も多様で中

高年者の比率も高かった。さらに中国に生活基盤を残さず、当初か

ら日本への永住を想定した帰国が多かった。こうした特徴は、二世

の帰国が個人的な階層上昇・自己実現・能力の発揮といった業績的

な動機(10)より、むしろ家族・血縁・世代といった属性的な動機に

重点があったことを意味している。たとえ経済的動機があっても、

中国の両親・兄弟姉妹との離別を意味する。帰国に反対・抵抗した

配偶者も少なくない。

*「夫は帰国に反対した。夫は渡日すると、私の父のように家族

と離散することになる。夫に『どうしても日本に行くなら、離

婚する』と言われ、すごく悩んだ。何度も話し合い、最後によ

うやく夫も帰国してくれることになった」

 「妻(二世)と娘が日本に行くし、妻の両親と弟も日本にいる。

舅は体がよくない。私は本当は日本に行きたくなかったが、一

人で中国に残るわけもいかなかった。中国で安定した仕事があ

り、いい生活を送っていた。職場で同僚との仲もよく、私の親

戚も皆、中国にいる。正直、中国を離れたくなかった。日本に

来たら妻や娘と団欒できるが、中国の親戚とは離れ離れになっ

てしまう」

 また、日本にいる家族(父母・兄弟姉妹)への思いがいかに強く

ても、それだけが唯一の帰国動機だったわけではない。中国との比

較で、日本社会に何らかの長所を見出していなければ、帰国は決断

しなかったと思われる。配偶者の場合、尚更である。

 そうした動機の一つは、比較的若い【後期帰国者】にとっては将

来性であった。

*「当時、海外に行く方が将来性があるというのが一般的な風潮

だった。それで私も、とりあえず日本に行って力試しをしてみ

ようと思い、帰国を決意した」

 「私は中国で比較的裕福だったが、さらに飛躍するチャンスだ

と思った。成功するにしても失敗するにしても、日本の方がい

ろんな可能性があると感じた。外国に行ってみたいという気持

ちも強かった」

 年長者も含め、日本の生活環境の良さ・福祉制度の充実も、一つ

の帰国動機となった。

*「親戚訪問で一時帰国した時、日本は空気がきれいで環境がよ

く、人は親切で礼儀正しかった。だから日本に行く方がいいと

思った」

 「私と妻の二人だけなら、中国でも退職金があるので、生活で

困ることはない。でも日本の方が、もっと安定している。たと

えば日本は健康保険があるので、誰でも治療が受けられる。中

国では小さな病気でも莫大な治療費を取られ、普通の人はまと

もな治療が受けられない」

 そしてこれらの動機は、「子供(三世)のため」という形で二世

と配偶者に共有された。子供の教育・就職・将来等を考え、日本へ

の帰国を決意したのである。

*「親戚訪問で一時帰国した時、中国に比べ、日本の教育や福祉

がいいと感じた。それで一人娘のために、日本に帰る決意をし

た。ただ子供の将来のため、それだけだ」

 「私は 1982 年、既に日本に帰国していた母を親戚訪問して、

半年ほど滞在し、子供の教育が充実しているのに感心した。そ

れで子供が中国語と日本語の両方を身につけられるよう、子供

の未来のために日本に帰国した方がいいと思った。私は中国で

小学校の教師だったから、子供の教育を特に重視していた。二

─ 104 ─

(217)

と認定されて日本へいけば、私も付いて行きたいし、行かなけ

ればならないと思っている」

 父母(一世)は既に日本に永住帰国したが、呼び寄せ帰国の手続

きが遅滞しているケースもある。

*「父母と弟は 2001 年、日本に帰国した。私だけが不許可だっ

た。理由は不明だが、弟は未成年だから許可されたのではない

か。父母も私の帰国を望んでいるが、非識字だから手続きをど

のようにしたらいいかわからないのだと思う。一日も早く日本

に行けるようにしてほしい」

 父母(一世)が既に中国で死去し、「日系人」としての認定を希

望しているケースもある。

*「母は帰国を果たせず、中国で亡くなった。私達は大変な手間

をかけ、帰国した残留婦人の手助けを借り、母の戸籍と日本の

伯母を捜し出した。でも伯母は、私達の身元保証人になること

を拒否した。周囲の二世が次々に帰国し、私達は取り残されて

とても焦っている。日本に母の墓地があると思うが、そこに遺

骨はない。母の遺骨を持参して納骨したい。母の親戚にも会い

たい」

 「6 年前、中国で死去した母の日本の親戚を捜し始めた。帰国

した残留婦人を頼り、母の戸籍謄本を取り寄せてもらった。母

の死亡の記載があった。生きている親戚を早く見つけたい。そ

して私達も日本に帰国したい」

 こうした農民・労働者・零細自営業者の二世の帰国動機は、主要

には経済的なそれであり、また子供の将来も含めて生活の安定にあ

る。特に農民はそれを率直に語っている。

*「日本はとても繁栄した国だから、ぜひ行きたい。技能実習生

として日本で稼げる給料と、二世として日本に行って働いて稼

げる給料はどっちが高いだろう。能力さえあれば、どこに行っ

ても大丈夫だ。不安に思っていない。私の友達も日本でちゃん

と働いているから、大丈夫だ」

 「経済的に貧しいから日本に定住したい。とにかく中国には居

たくない。私も夫も兄弟姉妹も皆、同じ気持ちだ。他の残留日

本人(一世・二世)は皆、日本に帰ったが、私達だけが中国に残っ

ている。なぜ日本へ行きたいかというと、日本は経済的に中国

よりいいからだ。私の子供達も日本にすごく憧れている。それ

は、中国での生活がとても苦しいからだ。もし私が日本に行け

なくても、私達の子供 4 人を日本に行かせてくれたら、それで

いい。でも、できるだけ家族全員、日本に定住したい」

 いずれにせよ、こうした農民・労働者・零細自営業者の二世の帰

国手続きは、遅々として進んでいない。

 その一つの理由は、序章でも指摘した如く、日本政府がこうした

二世の帰国を公的支援の対象と位置づけていないからである。帰国

申請が不許可になる理由も説明されない。

*「私は 1999 年以降、日本大使館に肉親捜しを依頼する手紙を

何度も出したが、すべてナシの飛礫だ。周りの残留日本人や二

世は本物も偽物も皆、次々に日本に帰国した。私の母は間違い

*「住宅はボロボロで狭いが、家を建てるお金などない。年収で

3000 ~ 4000 元だ。趣味と言えるようなものはなく、楽しみは

同じ村の3~4人の近隣とのおしゃべりだ」

 「年収は 3000 ~ 4000 元だ。夫が障害者で働けず、治療費もか

かる。農作業を請け負ってもらうので、経費もかかる。身体の

調子はずっとよくない。目が悪くなり、子供をつれていかない

と出歩くこともできない。子供も4人とも農民で皆、貧しい。

趣味はなく、交際相手は近所の数人だけだ」

 「自宅は草葺きで倒れそうだが、リフォームする金もなく、自

分でも直せない。夫と私で合わせて月500元位あれば良い方だ。

生活は苦しい。身体の具合が悪いが、何の病気か分からない。

お金がなくて医者に行ったこともない。子供達も全員、非正規

雇用の労働者か農民、無職で貧しい」

 労働者・零細自営業者は、1962 年以降に生まれた相対的若年層

が多い。改革開放政策の渦中で生活が不安定化した人々で、世帯収

入は月額 500 ~ 2000 元程度である。子供は就学中であることも多

い。趣味・交際相手は少ない。

*「収入は月 800 元しかない。それで一家三人を養っている。

生活のストレスで、高血圧になり、心臓病にも罹っている。お

金がないので病院には行かず、買い薬を飲んでいる。妻も工場

をリストラされ、今は無職だ。娘は中学生で、入学金(協賛金・

学校建設費)が 1 万 2000 元かかった。学費は別だ。今、中国

に無償の義務教育など存在しない。中国ではコネが第一、金が

第二、この二つがものを言う」

 「私は工場労働者で、妻は果物の屋台販売だ。夫婦で月収 1000

元しかなく、生活は苦しい。家は 30 平米で、狭くて困っている。

テレビを見ること以外に、楽しみはない」

 「自分の家は買えない。妻が保育園の非正規雇用の保母で、私

達は保育園に住み込みだ。私は労災で足を痛め、月 400 元の

収入しかない。妻の収入を含めて月1000元位で、生活は苦しい。

悩みは誰にも相談しない。話しても解決しない」

 「借家なので、家賃が高いのが一番の悩み。夫は36歳でタクシー

運転手だが、毎日仕事はない。正規の運転手が休みの日に、週

に 2 日ほど夫に運転させてくれるだけだ。趣味はなく、ここ数

年、昔の友達とも付き合わなくなった」

 「月収は 240 元しかない。妻の衣服販売自営の収入と合わせて

月 1000 元位だ。生活は苦しい。私は糖尿病で、毎日二回自分

で注射をしている。注射の薬は一本 62 ~ 63 元。1カ月に 5

本打たなければならない」

 農民・労働者・零細自営業者の二世はほとんどが、日本への帰国

を切望している(11)。帰国を果たせない理由は、日本政府の許可が

出ないことである。

 まず、父母(一世)が未だに日本政府に残留日本人として認定さ

れていないケースがある。

*「母がまだ残留日本人と認定されない。母が認定されたら、私

もぜひ日本に行って定住したい。母の面倒を見る人が必要だか

ら、私は付き添って永住帰国する」

 「故郷に帰りたいという母の夢を叶えてほしい。母が残留孤児

─ 106 ─

(218)

彼女から『あなたの兄が帰国に反対している。4 万 5000 元は

兄の説得や弁護士の費用として使った。引き続き頑張ってみ

る』と電話があった。でもそれ以降、音信不通だ。こちらから

電話しても誰も出ない。お金を払ったという領収書はない。私

達は非識字だし、旧知の間柄だから。それ以外にも私達は東京

に住む残留孤児に帰国手続きを依頼したり、ハルビンに証明書

を取りに行ったりして莫大な金を使ってしまった。借金でとて

も困っている。こんなにお金を使い、もう 10 年も前からずっ

と待っているのに、なぜ帰国できないのか。誰か教えてほしい」

小括

 永住帰国せず、中国にとどまっている二世は、改革開放政策の本

格化の中で生み出された両極の階層に位置していた。すなわち一つ

は、経済的に裕福な専門職・管理職で、しかも日本に住む父母(一世)

の扶養・介護に問題がない人々である。彼・彼女達は中国での生活

に満足し、日本への帰国を希望していない。いま一つは、不安定な

生活に苦しむ労働者・零細自営業・農民である。彼・彼女達は日本

への帰国を切望している。帰国が果たせない主な理由は、父母(一世)

が未認定、呼び寄せの手続きの遅滞、身元引受人確保の困難、そし

て公的支援と情報提供の欠如等、日本政府の帰国制限政策にあった。

 また、労働者・零細自営業・農民等の不安定層の場合、その帰国

動機は経済的なそれが前面に出ていた。これは、改革開放の本格化

以降の中国における一般民衆の生活の困窮の深刻化に起因する。ま

た日本政府の公的支援の欠如の下、帰国申請手続きには莫大な自己

負担経費がかかり、しかもそこに付け込む詐欺行為が横行している。

これらが帰国を切望する二世を、一般の中国人民衆以上に危機的な

経済的貧困へと追い込み、それが経済的動機を助長するといった悪

循環が見て取れた。

《補注》(1)浅野慎一・佟岩(2016)『中国残留日本人孤児の研究』御茶

の水書房、4 ~ 8 頁。

(2)対象者自身が中国で離婚し、日本に住む残留婦人の二世と再

婚した事例もある。これも、結婚後の事象に限って、配偶者とし

ての分析対象に含める。

(3)張嵐 (2009)「中国残留孤児二世のアイデンティティ」『日本オー

ラル・ヒストリー研究』5、大橋春美 (2006)「中国帰国者二世・

三世のアイデンティティ」『アジア遊学』85、広橋純子 (2006)「中

国帰国者二世・三世の進路選択」『アジア遊学』85、箕口雅博 (1996)

「中国帰国者家族の適応と援助」『青少年問題』43-4 等。

(4)張龍龍 (2019)「1980 年代半ばまでに連れられて来た中国残留

孤児第二世代」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』64、同 (2017)

「日本における中国残留孤児二世の就職過程」『ソシオロジカル・

ペーパーズ』26 等。

(5)佟岩・浅野慎一 (2019)「中国残留日本人の生成過程における

中国人民の実践と協働」『神戸大学大学院人間発達環境学研究科

研究紀要』12-2、佟岩・浅野慎一 (2018)「中国残留日本人の生成

過程における時空の意味」『神戸大学大学院人間発達環境学研究

科研究紀要』11-2。

(6)その他の【早期帰国者】として、中国人の実母が日本に住む

なく本物の日本人だが、帰国を認められないのは残念だ。厚生

省はなぜ私の帰国を認めないのか。私達はこれからどうすれば

いいのか」

 「これまで貧しすぎて、肉親捜しをする余裕もなかった。4 ~

5 年前に初めて帰国申請したが、不許可の手紙がきた。日本語

の手紙なので、不許可の理由はわからない。母の戸籍謄本は、

母の昔の友人が取得してくれた。日本政府は、私達のことをしっ

かり調べてほしい。なぜ許可されなかったのか。理由を知りた

い」

 もう一つの理由は、特に農民・農村で帰国申請をめぐる詐欺が横

行していることだ。これによる金銭被害が、ますます「日本に行っ

て稼がなければ」といった動機を助長している。

*「私達は非識字で書類を書けないので、1997 年、遠縁の親戚

に 2 万元の手数料を払って帰国申請手続きをしてもらった。で

も不許可だ。その後、2003 年まで毎年計 6 回申請した。手続

きを頼んだ相手は、その度に違う。しかしすべて不許可だった。

これまで手続き費用として計 7 ~ 8 万元かかり、ほとんど高利

の借金だ。ハルビンと日本の 2 人の弁護士に依頼し、不許可の

理由を調べてもらった。すると最初に遠縁に頼んだ時の書類に、

私が 5 人兄弟と記載されていた。本当は私は 2 人兄弟だ。2 回

目の申請から、2 人兄弟と正しく記載されていた。それで『兄

弟の人数が変わるのは信頼できない』との理由でずっと不許可

だったのだ。この事実は最近、ハルビンの弁護士から知らされ

た。最初の嘘の記載は、私が知らないうちになされていた。弁

護士によれば、遠縁の親戚は『日本は経済が発展しているから、

自分の子供の将来を考え、書類に追加した』と証言している。

今もまだ日本政府は許可してくれない」

 「これまで5回、帰国申請したが、すべて不許可だ。最初、残

留孤児の二世の夫として日本に行った中国人に2回、手続きを

依頼した。彼は元々の知己ではなく、『手続きをしてあげる』

と尋ねてきた。彼に公証書やパスポート、必要経費として1回

目に 1 万 1000 元、2回目に 1 万元を渡した。しかしその後、

不許可だったという手紙だけ届き、音信不通になった。彼との

契約書はない。口約束だ。わけがわからない。もし日本に帰国

できれば、彼に謝礼を払う約束だった。次が 1997 年、東京か

ら帰ってきた残留日本人二世が『手続きをしてあげる』と言っ

てきた。彼も以前からの知己ではない。私は非識字だから、彼

の名前の漢字もわからない。とにかく帰国手続きの専門業者だ

と語った。私達はまたパスポートを申請し、他の資料と一緒に

彼に渡し、今度は 4000 元払った。でも、また音信不通になった。

私達は何回も努力したが、すべてだめだ。何が間違っているの

か、どうすればいいのか、困り果てている」

 「日本に永住帰国した残留孤児が、私達を日本に帰国させ、日

本国籍も取ってくれるというので、8 年前に 4 万 5000 元を必

要経費として払った。実際に日本に帰国できたら、日本で働い

て家族 1 人につき 50 万円払う約束だった。彼女とは旧知なの

で信頼した。彼女は『うまく手続きができなければ 4 万 5000

元は返す。あなたの親戚が身元保証人を断っても、自分が身元

保証人になって、日本国籍も取ってあげる』と言った。2 年前、

─ 107 ─

と認定されて日本へいけば、私も付いて行きたいし、行かなけ

ればならないと思っている」

 父母(一世)は既に日本に永住帰国したが、呼び寄せ帰国の手続

きが遅滞しているケースもある。

*「父母と弟は 2001 年、日本に帰国した。私だけが不許可だっ

た。理由は不明だが、弟は未成年だから許可されたのではない

か。父母も私の帰国を望んでいるが、非識字だから手続きをど

のようにしたらいいかわからないのだと思う。一日も早く日本

に行けるようにしてほしい」

 父母(一世)が既に中国で死去し、「日系人」としての認定を希

望しているケースもある。

*「母は帰国を果たせず、中国で亡くなった。私達は大変な手間

をかけ、帰国した残留婦人の手助けを借り、母の戸籍と日本の

伯母を捜し出した。でも伯母は、私達の身元保証人になること

を拒否した。周囲の二世が次々に帰国し、私達は取り残されて

とても焦っている。日本に母の墓地があると思うが、そこに遺

骨はない。母の遺骨を持参して納骨したい。母の親戚にも会い

たい」

 「6 年前、中国で死去した母の日本の親戚を捜し始めた。帰国

した残留婦人を頼り、母の戸籍謄本を取り寄せてもらった。母

の死亡の記載があった。生きている親戚を早く見つけたい。そ

して私達も日本に帰国したい」

 こうした農民・労働者・零細自営業者の二世の帰国動機は、主要

には経済的なそれであり、また子供の将来も含めて生活の安定にあ

る。特に農民はそれを率直に語っている。

*「日本はとても繁栄した国だから、ぜひ行きたい。技能実習生

として日本で稼げる給料と、二世として日本に行って働いて稼

げる給料はどっちが高いだろう。能力さえあれば、どこに行っ

ても大丈夫だ。不安に思っていない。私の友達も日本でちゃん

と働いているから、大丈夫だ」

 「経済的に貧しいから日本に定住したい。とにかく中国には居

たくない。私も夫も兄弟姉妹も皆、同じ気持ちだ。他の残留日

本人(一世・二世)は皆、日本に帰ったが、私達だけが中国に残っ

ている。なぜ日本へ行きたいかというと、日本は経済的に中国

よりいいからだ。私の子供達も日本にすごく憧れている。それ

は、中国での生活がとても苦しいからだ。もし私が日本に行け

なくても、私達の子供 4 人を日本に行かせてくれたら、それで

いい。でも、できるだけ家族全員、日本に定住したい」

 いずれにせよ、こうした農民・労働者・零細自営業者の二世の帰

国手続きは、遅々として進んでいない。

 その一つの理由は、序章でも指摘した如く、日本政府がこうした

二世の帰国を公的支援の対象と位置づけていないからである。帰国

申請が不許可になる理由も説明されない。

*「私は 1999 年以降、日本大使館に肉親捜しを依頼する手紙を

何度も出したが、すべてナシの飛礫だ。周りの残留日本人や二

世は本物も偽物も皆、次々に日本に帰国した。私の母は間違い

*「住宅はボロボロで狭いが、家を建てるお金などない。年収で

3000 ~ 4000 元だ。趣味と言えるようなものはなく、楽しみは

同じ村の3~4人の近隣とのおしゃべりだ」

 「年収は 3000 ~ 4000 元だ。夫が障害者で働けず、治療費もか

かる。農作業を請け負ってもらうので、経費もかかる。身体の

調子はずっとよくない。目が悪くなり、子供をつれていかない

と出歩くこともできない。子供も4人とも農民で皆、貧しい。

趣味はなく、交際相手は近所の数人だけだ」

 「自宅は草葺きで倒れそうだが、リフォームする金もなく、自

分でも直せない。夫と私で合わせて月500元位あれば良い方だ。

生活は苦しい。身体の具合が悪いが、何の病気か分からない。

お金がなくて医者に行ったこともない。子供達も全員、非正規

雇用の労働者か農民、無職で貧しい」

 労働者・零細自営業者は、1962 年以降に生まれた相対的若年層

が多い。改革開放政策の渦中で生活が不安定化した人々で、世帯収

入は月額 500 ~ 2000 元程度である。子供は就学中であることも多

い。趣味・交際相手は少ない。

*「収入は月 800 元しかない。それで一家三人を養っている。

生活のストレスで、高血圧になり、心臓病にも罹っている。お

金がないので病院には行かず、買い薬を飲んでいる。妻も工場

をリストラされ、今は無職だ。娘は中学生で、入学金(協賛金・

学校建設費)が 1 万 2000 元かかった。学費は別だ。今、中国

に無償の義務教育など存在しない。中国ではコネが第一、金が

第二、この二つがものを言う」

 「私は工場労働者で、妻は果物の屋台販売だ。夫婦で月収 1000

元しかなく、生活は苦しい。家は 30 平米で、狭くて困っている。

テレビを見ること以外に、楽しみはない」

 「自分の家は買えない。妻が保育園の非正規雇用の保母で、私

達は保育園に住み込みだ。私は労災で足を痛め、月 400 元の

収入しかない。妻の収入を含めて月1000元位で、生活は苦しい。

悩みは誰にも相談しない。話しても解決しない」

 「借家なので、家賃が高いのが一番の悩み。夫は36歳でタクシー

運転手だが、毎日仕事はない。正規の運転手が休みの日に、週

に 2 日ほど夫に運転させてくれるだけだ。趣味はなく、ここ数

年、昔の友達とも付き合わなくなった」

 「月収は 240 元しかない。妻の衣服販売自営の収入と合わせて

月 1000 元位だ。生活は苦しい。私は糖尿病で、毎日二回自分

で注射をしている。注射の薬は一本 62 ~ 63 元。1カ月に 5

本打たなければならない」

 農民・労働者・零細自営業者の二世はほとんどが、日本への帰国

を切望している(11)。帰国を果たせない理由は、日本政府の許可が

出ないことである。

 まず、父母(一世)が未だに日本政府に残留日本人として認定さ

れていないケースがある。

*「母がまだ残留日本人と認定されない。母が認定されたら、私

もぜひ日本に行って定住したい。母の面倒を見る人が必要だか

ら、私は付き添って永住帰国する」

 「故郷に帰りたいという母の夢を叶えてほしい。母が残留孤児

─ 106 ─

(219)

残留孤児と再婚し、日本に渡った二世もある。

(7)浅野慎一・今井博 (2003)「出稼ぎブラジル人と日本人の労働

と文化変容」『日本労働社会学会年報』14

(8)浅野慎一編著 (2007)『増補版 日本で学ぶアジア系外国人:

研修生・技能実習生・留学生・就学生の生活と文化変容』大学教

育出版。

(9)2003 年、日本に住む残留婦人の二世と結婚して渡日した配偶

者は、必ずしも日本での生活に憧れていたわけではない。それで

も再婚を決意したのは、中国での生活がそれ以上に困難と思われ

たからである。「夫は当時、離婚して 9 歳の子供がいた。夫は無

職で、すごく貧しかった。夫が中国にくる旅費や私への結納金も

すべて借金だ。夫の話によれば、日本にいる残留邦人は最下層だ

そうだ。中国では想像できないほど貧しいと言った。私の両親や

兄弟は、夫との結婚には大反対だった。それでも私は結婚した。

中国を離れ、日本に行くのは嫌だったが、中国にいても将来が見

えないからだ」。

(10)留学生として渡日し、来日後に残留婦人の二世と結婚したケー

スは、渡日の動機を次のように語っている。「自分の運命を切り

開こうと思って留学した。日本の状況は中国よりよかったし、当

時の中国では日本留学が流行していた。アメリカ留学は金メッキ、

日本留学は銀メッキと言われていた。日本に来る時、とてもうれ

しかった。きっと素晴らしい未来が待っているだろうと思った」。

(11)労働者・零細自営業者・農民の二世でもごく一部、永住帰国

を望まないケースもある。それは、「日本で生活する自信がない」

との理由による。「私自身、日本定住を考えたことがない。母が

日本に帰るとしても兄がついて行くだろう。私は行かない。兄弟

姉妹の中で、私は一番だめだ。神経衰弱の病気に罹っているし、

言葉も通じない日本で生活していける自信もない。私は足るを知

る人間だ」、「日本に帰国したいと思わない。日本に行ったことも

なく、様子もわからないからだ。年も年だし、無理だとわかって

いる。非識字だから手続きの書類も書けない」。

本研究は、2018 年度科学研究費新学術領域研究 ( 和解学の創成-

正義ある和解を求めて)「中国残留日本人をめぐる『正義ある和解』

の学的探究」の助成を受けた。記して謝意を表したい。

同科研の成果は「尊厳ある和解を求めて」

http://www.dignity-reconciliation.jp/

─ 108 ─

(220)