Paul Michael Lützeler (Hg.): Hermann Broch und Frank ...

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なかった。つまりフォルクは良き読者・良き観衆として,自分たちにとって必要なもの を享受したいという思いにかられているわけではないということをアイヒェンドルフ自 身が作品中に描き出したのであった。著者によるアイヒェンドルフのテクスト分析は, アイヒェンドルフのフォルク像の理想と現実を浮かび上がらせた。 著者は「あとがき」の中で,自身の関心は「集団の中での個人の寂寥感や孤独」そし て,「集団となった人間の盲目さが何をもたらすのか」にむけられていると記している。 集団への違和感,集団における「個」の声の消失への不安は,クライストが作品中に示 していたそれと重なりあう。しかし集団には「理想化」と「啓蒙」が常に新しい風とし て吹き込まれなくてはならない。少なくともアイヒェンドルフもゲレスも集団が文学作 品に触れることによって「理想化」の実現が果たされるのではないかと信じていた。彼 らは集団にただ文学を与えるのではなく,それを取捨選択させる自由を与えようとした が,実際にはそれも夢想のままとなった。本書では, 3 人の作家たちが目指した「文学」 によって形成されるはずであった理想のフォルク像と,フォルクの実像との相違が明ら かになった。ここにロマン主義とナショナリズムの時代を生きた 3 人の作家たちのそれ ぞれの「孤独」が示されている。 (松籟社 2019 年) Paul Michael Lützeler ( Hg. ) : Hermann Broch und Frank Thiess Briefwechsel 1929 - 1938 und 1948 - 1951 桑  原     聡 パウル・ミヒャエル・リュッツェラー Paul Michael Lützeler は,ヘルマン・ブロッホ 著作集(Kommentierte Werkausgabe Hermann Broch, 1974 - 1981 Frankfurt a.M. ( Suhrkamp ) 13 巻(17 冊)を編集し,その第 13 巻(3 冊)に書簡を収めている。その後, Hermann Broch: Briefe über Deutschland – Die Korrespondenz mit Volkmar von Zühlsdorff, ( 1986 Frankfurt a.M. ( Suhrkamp )) を皮切りに,次々とヘルマン・ブロッホ(1886 - 1951)の往 復書簡集を編纂している。2018 年にはフランク・ティース Frank Thiess1890 - 1977との往復書簡集を Wallstein 社から出版した。電子メールのなかった時代の作家は多く の書簡をしたためている。ブロッホはとりわけ亡命後は,亡命者のために,戦後はドイ ツ語圏の友人作家たちを助けるために多くの手紙を書き,自らの仕事に手がつかないと 書   評 249

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なかった。つまりフォルクは良き読者・良き観衆として,自分たちにとって必要なものを享受したいという思いにかられているわけではないということをアイヒェンドルフ自身が作品中に描き出したのであった。著者によるアイヒェンドルフのテクスト分析は,アイヒェンドルフのフォルク像の理想と現実を浮かび上がらせた。 著者は「あとがき」の中で,自身の関心は「集団の中での個人の寂寥感や孤独」そして,「集団となった人間の盲目さが何をもたらすのか」にむけられていると記している。集団への違和感,集団における「個」の声の消失への不安は,クライストが作品中に示していたそれと重なりあう。しかし集団には「理想化」と「啓蒙」が常に新しい風として吹き込まれなくてはならない。少なくともアイヒェンドルフもゲレスも集団が文学作品に触れることによって「理想化」の実現が果たされるのではないかと信じていた。彼らは集団にただ文学を与えるのではなく,それを取捨選択させる自由を与えようとしたが,実際にはそれも夢想のままとなった。本書では,3人の作家たちが目指した「文学」によって形成されるはずであった理想のフォルク像と,フォルクの実像との相違が明らかになった。ここにロマン主義とナショナリズムの時代を生きた 3人の作家たちのそれぞれの「孤独」が示されている。

(松籟社 2019年)

Paul Michael Lützeler (Hg.):

Hermann Broch und Frank Thiess Briefwechsel 1929 - 1938 und 1948 - 1951

桑  原     聡

 パウル・ミヒャエル・リュッツェラー Paul Michael Lützelerは,ヘルマン・ブロッホ著作集(Kommentierte Werkausgabe Hermann Broch, 1974-1981 Frankfurt a.M. (Suhrkamp))全 13巻(17冊)を編集し,その第 13巻(3冊)に書簡を収めている。その後,Hermann Broch: Briefe über Deutschland – Die Korrespondenz mit Volkmar von Zühlsdorff, (1986 Frankfurt a.M. (Suhrkamp))を皮切りに,次々とヘルマン・ブロッホ(1886 - 1951)の往復書簡集を編纂している。2018年にはフランク・ティース Frank Thiess(1890 - 1977)との往復書簡集をWallstein社から出版した。電子メールのなかった時代の作家は多くの書簡をしたためている。ブロッホはとりわけ亡命後は,亡命者のために,戦後はドイツ語圏の友人作家たちを助けるために多くの手紙を書き,自らの仕事に手がつかないと

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嘆いている。1)

 この書簡集が注目に値するのは,ブロッホの相手がフランク・ティースという,「国内亡命」innere Emigrationという概念を用いトーマス・マンを非難し,戦後ナチ協力者と見なされ,ゲルマニスティクからはほぼ無視され続けた作家であるという点にある。編者リュッツェラーの綿密な博捜と詳細な注により,二人の関係,とりわけティースに関する正確な情報が初めて明らかにされたことが本書簡集のもつ大きな意義の一つである。 ブロッホの経歴については多くを語る必要はなかろう。1886年 11月 1日ウィーン近郊で繊維業を営んでいたユダヤ系の実業家の家庭に生を享け,彼自身後に工場経営に当たる。1927年に繊維工場を売却し,ウィーン大学で数学,物理学,哲学を学んだ後に初めて作家となる。彼の処女作『夢遊の人々』Die Schlafwandler第 1巻『1888 パーゼノーないしはロマン主義』(1888. Pasenow oder die Romantik. (Rhein Verlag))が出版されるのは 1930年 12月である。この時ブロッホは 41歳である。『夢遊の人々』三部作成立を精神的に支え,強力に後押ししたのがフランク・ティースである。 ティースは 1890年 3月 13日,ユクスキュル(現在のラトビア)に生まれ,ベルリン,チュービンゲンでゲルマニスティクを学び,1914年に博士の学位を取得し,作家となる。ブロッホがティースに対して „Verehrtester Herr Doctor!“(51頁)等と書簡で記すのはこのためである。ティースは日本では,日本海海戦を題材とした『ツシマ ある海戦の小説』(Tsushima. Der Roman eines Seekrieges. 1936 Berlin/Wien/Leipzig (Zsolnay))の作者として一部の読者に知られているが(邦訳『対馬日本海海戦とバルチック艦隊』柄戸正訳,文芸社,2012年),ゲルマニストには「国内亡命」という概念を新しく造り,トーマス・マンに代表される亡命者作家たちに対して自らを含め国内にとどまった者たちの立場を擁護したことで有名であろう(1945年 8月 18日付Münchener Zeitung,464頁編者注)。 ブロッホはティースと 1929年の冬,ウィーンのあるサロンで知り合う。ブロッホは,四歳年下でそれまで面識はなかったが,すでに作家としてのキャリアをもっていたティースに自分の原稿─その後この原稿は推敲を経て『夢遊の人々』第 1巻となる─を読んでもらえないかと依頼する。この原稿に目を通したティースは,ブロッホの才能を高く評価し,自分がいまだ「この本物の,偉大なる作品の影響下にある」とブロッホに書く。「登場人物は生き生きとしています…不要なものは何一つありません…彼らの行動あるいは身振りのどんな些細なものも深みからの反映となっています。だからこそ彼らの運命もまたたんに人間的であるばかりでなく,時代に特有なものであるばかりでなく,同時に,絶対の妥当性をもち,文学が存在する限りその本質をなす,あの逃れがたい,純粋な悲劇性を有しているのです…」と評する(1930年 3月 18日付書簡,62頁)。これ

1) 1949年 5月 17日付書簡。ブロッホは,既に 1947年 7月 27日付けの書簡で次のように記している。「人間の運命が文通によって破滅させられるとはそれ自体グロテスクなことである。だが,私がその一例だ。」KW 13/3, S.152.

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が戦間期の 10年を除いて,ブロッホが 1951年にアメリカで亡くなるまで絶えることなく続くことになる友情の始まりである。 二人は互いに尊重し合いながらも,相互の作品を忌憚なく批評していたこともこの書簡集は明らかにしてくれる。第 2巻『エッシュ』(1903. Esch oder die Anarchie. 1931 (Rhein Verlag))においては,第 1巻で重要な役割を果たした人物ベルトラントが影を薄くしていること(同年 6月 8日,86頁)や,第 3巻『フーゲナウ』(1918. Huguenau oder die Sachlichkeit. 1932 (Rhein Verlag))は歴史を,神という絶対的価値の喪失により理性が自立と同時に非理性へ頽落する過程と理解しているが,そのことにより,ティースは「その精神の卓越」が「賛嘆に値する」ものではあるものの,「芸術的には説得力に欠ける」としてこれを「失敗作」であると断じている(1932年 4月 2日付書簡,173-

174頁)。 編者のリュッツェラーが指摘するように(11頁),この往復書簡集には主に三つのアスペクトがある。第一は,両者の助け合いであり,第二は,自らの作品についての,あるいは相手の作品についての批評であり,第三は,世界の政治情勢の評価である。この順に紹介していきたい。 『夢遊の人々』第 1巻を読んだティースはブロッホに即座に出版社を紹介しようとする。彼が挙げるのは自らの作品の出版社である Paul Zsolnay社とKiepenheuer社である。また,10,000 RMの懸賞金が付いたDiederichs社の懸賞小説に応募するよう勧める。ゾルナイもキーペンホイアーも手付金としてこの金額を提示することはないと心配してのことである。ティースの細やかな配慮ぶりが見て取れる。また,ティースは 1930年 6月 24日付書簡で出版社との契約について事細かに指南する。(90-91頁)『夢遊の人々』は,結局, 彼の後の作品を出版することになるブロディDaniel Brodyが経営するRhein-Verlagから出ることになる(この件に関しては 1930年 5月 20日,5月 29日付ティース宛書簡等を参照)。 さらにティースは『夢遊の人々』三部作が揃った時点でそれについて書評を書くことをブロッホに知らせる。(1931年 5月 21日付書簡)そして 1932年 8月 5日にティースは『プリズムに投げ込まれたモラル:ヘルマン・ブロッホ。作家の『夢遊病者たち』三部作について』“Die Moral durch ein Prisma geworfen: Hermann Broch. Zur Schlafwandler-Trilogie des Dichters.” と題した書評を Die literarische Welt誌 32巻 8号に掲載する。 他方,ブロッホは,ティースの代理人であったドゥーニン Lyonel Duninがティースの原稿料を横領していたことが判明した際(1934年 11月ブロッホ宛て書簡,331頁),経営者であった頃の経験を活かしてティースに助言し,自らの弁護士を紹介し献身的にティースを支える(1934年 12月 7日付書簡,334-335頁)。この件に関して気弱なティースは(例えば 1935年 11月 9日付書簡,388頁)遂にはブロッホの助言を容れて,ドゥーニンを告発する(1935年 12月 30日付書簡)。 互いの作品についての批評については一部すでに述べた。ブロッホのティース作品に対する詳細な批評は多くは残されていないが,『ツシマ』を除いて好意的である。ブロッ

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ホはティース作品の意義と技巧を高く評価しながらも,ティース作品が現代を反映する形式を得ていないと感じており,その方法論の参考にとティースにジェームズ・ジョイス,ドス・パソス,トーマス・ウルフ等を勧めている(1931年 6月 5日付書簡,139頁等)。両者は相手の批評眼を尊重し,相互に自分の作品についての意見を求め合う。ブロッホはティースの『ヨハンナとエスター 湿原の愛の年代記』(Johanna und Esther. Eine Chronik ländlicher Ereignisse. 1933 Berlin/ Wien/Leipzig (Zsolnay))について次のように述べる。「さて私の印象はとても奇妙なものです。最初私はとても失望しました。あなたが,『ケンタウロス』(Der Zentaur. Roman. 1931 Stuttgart (Engelhorn))で始めた道からとてつもなく逸れてしまったからであり,また私が新しい小説形式へのさらなる一歩をあなたに期待していたのみならず,まさに要求していたからです。しかし私はあなたの厳格な自己抑制を,また,あなたがいかに最小の手段でこの本の極めて複雑な構成を組み立てているかに賛嘆ぜざるを得なくなったのです。遂には,私は作品の文学としての完結性と真に文学的な細部に夢中にならざるを得ませんでした」(1933年 5月 23日,223-224頁)。 さて『ツシマ』である。この小説をブロッホは「疑う余地のない『にもかかわらず作品』(Obwohl-Werk)」と呼ぶ(1936年 10月 20日付,414頁)。その一例を挙げる。「この作品が抜きん出た小説となっているにもかかわらず,科学技術時代の英雄崇拝によって私たちすべての者のうちに引き起こされる重たい不快感が残るのです。」ティースが,ナチズム支配が成立している時期に世界史上最初の近代戦である日本海海戦を取り上げ,「愛国主義的言辞」を作品にちりばめていることにブロッホは「恐怖の念」を抱くと書く。だが,この作品が二人の友情を引き裂くことはなかった。 時代状況についてブロッホが精確な状況分析と判断をしていたのに対し,ティースにはある種の楽観主義があったように思われる。1933年 3月 8日の手紙でティースはドイツ国会選挙においてナチ党が共産党に勝利したことについて次のように記す。「ドイツの状況を私はあなたほどには絶望的と見ていません。あなたも,純粋に政治的に見たときに,これによって大いなる進歩がもたらされたことを明確に認識されるでしょう」(210-211頁)。その後ティースはナチズム体制もスターリン体制も全体主義であるという点では変わらないという認識に至る(1934年 6月 14日付書簡他)。だが,戦後,ティースはヒトラー崇拝者だったとして批判される。1939年にニューヨークで創刊された,ドイツからの亡命者のための新聞「再建」Aufbau, Reconstructionは「フランク・ティースを巡る論争」を掲載する。その記事の中でウルリヒ・ベッヒャー Ulrich Becherは 1941年に「再建」紙が掲載した文章でティースに触れている。それによればティースはナチ政権が成立した時期に「ヒトラー思想の虜となっていた」という。「論争」は,ベッヒャーの言に対してティースが自分は「ナチ政権によって迫害された」と答え,その証人としてフランツ・ヴェルフェル, エルンスト・ヴィーヒェルトとヘルマン・ブロッホを挙げていると伝えている。この新聞を送られたブロッホは 1948年 9月 30日付書簡でティースに,「再建」紙に「証言」を送ったと伝えている(471頁)。それは 1948年 10

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月 15日号に掲載される。「1. 1938年 5月(事実は 3月末,編者注)に私が釈放されてからユダヤ人ではない私の知人たちのほとんどは私にとってこの地上から消え去り,まったく何の痕跡も残しませんでした。フランク・ティースは,あえて彼らとは異なった態度を取ってくれた数少ない人々の一人でした。ティースは,私が 1938年 7月に亡命するまで臆することなくまたそれまで通りに交友を続けてくれたのです。2. あの三ヶ月(ブロッホが逮捕されていた期間。ただし実際は半月強,編者注)の間ティースはナチ政権に対して憎悪と軽蔑の言葉しか口にしませんでした。3. 彼はまた自らの危険を顧みず私の原稿2) を外国3) に密かに送り出してくれました。これが,私が常に感謝の念を抱きつつ決して忘れない事実です。ヘルマン・ブロッホ」(474頁)。 この往復書簡集からは,ナチ党評価のように友情の危機ともなりえた事態があったにも拘わらず,戦間期および戦後初期の 10年間,手紙のやりとりができなかった期間を除き,二人の親密な交友がブロッホの死まで続いていたことを如実に読み取ることができる。戦後,ティースは,ナチズムを支えた「大衆心理」について一書をまとめている(Ideen zur Natur- und Leidensgeschichte der Völker, 1949 Hamburg (Krüger))。ブロッホは,ナチズム成立についてティースが自分と関心を共有していることを示すこの書をことのほか喜ぶ(1949年 5月 8日付書簡,516頁)。ブロッホが自らの群衆妄想論と悪戦苦闘していた時期である。 この往復書簡集には,現代における文学の意味に関する省察,当時の政治状況,出版(社)状況,二人の経済的状況,他の作家の消息等が仔細に記されており,ナチズム前夜から戦後 1951年までの一時代の政治・社会文化史ともなっている。しかし,この往復書簡を十全に読み解くには編者リュッツェラーの丁寧かつ詳細な注なしではありえない。「論争」の背景説明のための注がその良い証左となっている。もう一例挙げれば,ティースの発言の真偽を確かめるために,ティースの未刊の日記,あるいは Berlin Documentation Centerに残されている,8通の書簡を含む Reichsschrifttumskammerの「フランク・ティース文書」まで博捜している。その結果,ティースがナチズム支配の間「迫害」され「焚書」にあったと主張していたのに対し,上記の「文書」をもとにティースの二つの作品(Die Verdammten 1922 とDer Frauenraub 1927。両者とも Engelhorn社刊)のみが「風紀上」の問題(近親相姦や姦通の描写等)のために発禁処分となっていた事実を明らかにする(320頁以下および 480頁)。ティースとナチズムの関係は編者の努力によってほぼ解明されたと考えられる。かくしてこの『ヘルマン・ブロッホ-フランク・ティース往復書簡集』は,たとえば『夢遊の人々』の成立経緯に関心を抱くブロッホ研究者のみならず,この時代と取り組む者にとって必須の文献となっているのである。 (Göttingen: Wallstein 2018)

2) 『誘惑者』の第一稿のことを指す。 3) ブロッホの最初の亡命先スコットランドのこと。

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